三田地さんの掲示板

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三田地家伝説をやや批判的にみれば、刀鍛冶だから苗字が御刀みたち、というのはこじつけのような気がするし「御刀」という苗字自体が見つけられません。何年間にもわたり調査しましたが、未だに目にしたことがありません。消滅した形跡もなく刀鍛冶のなかにも勿論ありません。ただし、御刀研師おんかたなとぎしの看板や商売用のれんは時折目にしたことがあります。本来苗字ではありませんが、御刀は公家の世界では三位以上、いわゆる殿上人が持つ刀を指します。大御刀おおみたち、は天皇の持つ刀を指します。
(2019/10/14 14:54:54:三浦屋)

昭和の始めには、ほぼこの長文で伝わっていた話しですが、伝説 は普通は100年くらいで消えていくそうです。長い間に尾びれがつき創作されたものかも知れません。この伝説の骨子は、先祖が京都の刀鍛冶であり紆余曲折のすえ奥州の岩泉地方に来住して苗字を三田地に改めたということです。但し伝説ですからどこまで根拠のある話しかわかりません。閉伊地方は特に、都落ちのお姫様や公家伝説、鍛冶職伝説は少なくありません。
(2019/10/06 08:51:21:三浦屋)

岩泉の三田地家には、刀鍛冶伝説が伝わっています。昔京都に住む刀鍛冶にひとりの娘がいたがある日「人さらい」にあってしまった、刀鍛冶の弟たちが追っ手としてたどり着いたのが陸奥の宮古であった、噂をたどりながらようやく見つけた娘は結局殺されてしまった、刀鍛冶の弟たちは京都にいる兄に会わせる顔も無くなってしまったので、娘の菩提を弔うために岩泉の山中に入り永住することにした、また、兄の手前御刀みたち姓 を名乗ることを止め字を替えて三田地姓と称した、追っ手として弟の徳を慕う従者たちも京都には帰らず留まることになった、現在 府金姓を名乗る家はこの時の従者の子孫と云われる、といった内容です。一見荒唐無稽な中にもストーリー的に何かを暗示しているかのような言い伝えです。
(2019/09/23 08:09:24:三浦屋)

地名フガネはほとんどが府金の漢字を当てています。伝播していったものか何かの理由があって統一された可能性もありますが、南部藩内で使った用語かも知れません。伝説の域を出ませんが下新屋には「先祖は砂金採りを生業として裕福な生活をおくった」との口碑があります。肝煎であった屋号府金の三田地家も先祖代々の古文書類はほとんど残っていないようです。また、屋敷裏側の岩山に由緒ありげな小さい祠があります。鼠入川地区の屋号良橋の三田地家も旧家ですが古鏡を御神体として祭っています。話しは前後しますが、戦国~江戸初期までは南部氏の流れを汲む岩泉氏が大館(宇霊羅山のふもと)に館を築きこの地方を領主経営していましたが、後に内紛にて失脚しています。
(2019/09/08 10:23:18:三浦屋)

前述した府金という地名に少しこだわってみます。いつ頃からあった地名かハッキリしないものの江戸時代の古文書にその名が見られます。端的に京都府や砂金との関連 を想像させますが、中心地というよりもむしろ行政の出先機関、あるいは物品を納める蔵といった意味のほうが合うようです。蝦夷語のヒガネから出ているのだと説明される人もいます。また、昔は普ヶ根 と書き川のすぐ近くに多い膿んだ土地の高まりを指しているとも云われます。いずれ水場に関連がありそうです。南部藩領北側に散見される地名で小府金、府金橋や苗字としても見らます。福島県飯館村には風兼ふがねダムがあります。
(2019/09/08 09:24:41:三浦屋)

1662年寛文2年、伊達藩の東磐井郡の例では320人の本判持ちが990人の堀子を使い688匁もんめの砂金を収めています。約2.6tの重さとなります。北上山系では伊達、南部とも水稲生産力が弱かったので、産金事業は重要な収入源でありその意義は藩や庶民にとってはたいへん大きい 存在でした。匁もんめは五円玉一枚程度の重さでした。一両になると約30g、現在の貨幣価値でアバウトで13万円と云われます。
(2019/09/01 19:41:06:三浦屋)

佐渡の金山とちがい南部藩の産金事業は砂金、川砂金の採取であって極めて零細的な家族単位の仕事でありました。小集団を四階級に分けて、本判持ち、水呑み、名子、かつくいの名称をもって分業していました。本判持ちと本百姓は身分が違います。 本判持ちに隷属したのが水呑み、名子、かつくいという訳です。
(2019/09/01 08:26:03:三浦屋)

を抱える伊達南部両藩は藩政初期は産金事業のお陰でその財政は豊かなものでした。1598年慶長3年、豊臣秀吉の金蔵入れ帳には上杉氏の佐渡金山を筆頭に、二番目が伊達領気仙、東磐井郡の金山で年間7000両の鉱山税を収めていた記録があります。南部藩は七番目でしたが年間405両の鉱山税を収めていました。
(2019/08/24 14:22:05:三浦屋)

北上山系
(2019/08/24 14:08:06:名無し)

府金ふがね、下新屋しもにいや、下河原、古屋敷、上下かみした、萬屋、茶屋の下、上新屋かみにいや、三菱、上宝呂林かみほうろばやし、北辰ほくしん等の屋号があります。また中新屋という屋号がありますが三田地姓ではありません。古屋敷は、先祖がかつて住んでいたことによる意味だそうです。沢廻り地区は龍泉洞を経由して流れてくる清水(しづ)川 沿いの村です。山裾側一帯が小字府金ふがねとなっており、初めに村に住むことになった三田地家が府金の屋号を用いてます。府金の語意は南部藩の砂鉄管理の役所役宅であるとか、ズバリ産金地であるとかと云われています。府金三田地家は二十代ほど続く旧家であり江戸時代は肝煎り(名主)を務めた家だそうです。北上山系は 元々砂鉄、砂金の産地だったようで藩政初期は特にゴールドラッシュの時代だった記録があります。
(2019/08/15 15:37:49:三浦屋)

現在は岩手県の岩泉地方に三田地姓は多いのです、が、ここが古郷ではなくいつの時代にか祖先が他地方から移住してきたと思われます。沢廻り地区を中心に室場、鼠入川地区などにも同苗字が広がっているので、様々な 屋号を 名乗り 区別を行っています。
(2019/08/15 14:46:02: 三浦屋)

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