三田地さんの掲示板

全国の三田地さんに関する掲示板です。三田地さんに関するエピソードや三田地さんの由来、「三田地会」、「三田地」サークルなどの存在や三田地さん限定サービスなどのお得情報等、三田地さんに関することを教えてください。
足跡&一言だけでもぜひお願いします!!
このページは自分のお仕事をPRしたり、ホームページのアドレスを載せてもOKです。 ただし無関係の広告や自分の名前ではないページでのPRは削除します。
※個人を特定できる投稿はしないでください。

この掲示板は 3969名の人に閲覧されています。

投稿フォーム

内容
ユーザ名
削除key
足あと
次の10件 >>

当時の瀬田丘陵遺跡群(琵琶湖南岸にある草津市、名神高速草津JCT 一帯)は近江宮造営(667)を契機に設立されたばかりで、技術指導のための工人を派遣できる余裕はありませんでした。むしろ、多数の上番労働力を必要としました。推定すると瀬田丘陵遺跡群は一大研修センターの役割を果たしていました。在地 技術基盤のない東国各地と中央の 体系共有化が国家的な政策で進められたと思われます。
(2019/04/07 14:52:45:三浦屋)

武井金沢製鉄所遺跡群の生産は、結局帰郷型、帰郷指導型によって開始されました。須恵器生産の在り方とは異なり鉄生産の開始は、極めて軍事.政治的性格が強いことを物語っています。
(2019/04/07 14:27:40:三浦屋)

三番目に帰郷型です。これは周辺工人が中心に赴きある程度生産に従事したあとUターンして生産活動を行います。上番労働に似ています。最後に帰郷指導型です。帰郷型工人 がさらに在地で技術伝習を行って生産します。出稼ぎのようなものと言えます。
(2019/03/24 13:32:57:三浦屋)

さて、工人の動きについての解説に戻りたいと思います。まず、巡回型というのは、中心にいる工人が周辺に行き直接生産します。そして終了とともに帰るか別な所に行きます。次に指導型です。中心工人が周辺に行き在地労働力を組織して生産します。
(2019/03/24 13:14:53:三浦屋)

足あと(2019/03/10 18:13:59:名無し)

近江大津宮は、天智天皇6年(667)飛鳥から近江に遷都されました。近江令など律令制の基礎となる対策を実施しました。飛鳥京の治安不安定をきらい遠い近江に遷都したと云われます。都の規模としては大きいとは言えず、南北700m東西400m程度の狭い立地と推定されています。 平城京や平安京のような条坊制が存在した記録はありません。 天智帝崩御後、息子の大友皇子(弘文帝)は壬申の乱 で大海人皇子(天武帝)に敗れ 5年余りで廃都となりました。 広さだけから観ると郡山官衙(推定陸奥国官衙)と同等でしょうか。
(2019/03/10 10:05:17:三浦屋)

引き続き、1の中心~周辺型をさらに細分化いたしますと、巡回型、指導型、帰郷型、帰郷指導型の四つに分類されます。ここでは詳細はあとにして、時代背景を少し説明したいと思います。600~700年代にかけて日本国内は度重なる遷都があり、陸奥の開拓なども相まって国家、民間にて活発な工業生産が行われました。それは近江大津宮(滋賀県大津市)造営と時期が重なっています。鉄、瓦、須恵器生産は 造営と深く関連がありそうです。
(2019/03/03 09:56:27:三浦屋)

まず、大きく三つに分けます。1、中心~周辺型、これは工人が中心から周辺に直接技術を伝えることをいいます。2、玉突き型、これは工人がいくつもの地点を経由し、玉突き状に技術を伝えることをいいます。3、模倣型、工人の技術は伝えられず「見かけ」だけマネされる場合です。以上の三つが大きい分け方となります。
(2019/02/24 11:08:01:三浦屋)

ふたたび、鉄生産の話題に戻りたいと思います。ここでは鉄生産の話が中心 ですが、他に瓦生産、須恵器生産に携わる集団もいて三位一体のものであったそうです。学芸員菅原氏の論文は以下のように表現しております。武井や金沢の製鉄遺跡は近江国の官営製鉄所の技術体系と同一となっています。この技術体系が具体的に、どのような工人の動きで伝えられたのかは必ずしも明確ではありません。そこで研究の進んでいる須恵器生産で、どのような類型設定がされているのかをみてみたいと思います。
(2019/02/17 10:34:20:三浦屋)

また、古墳造営は被葬者が活躍している頃から行われるが、様々な事情で急死した場合などは仮埋葬を実施しあとで完成した石室に遺体を納めたことも十分考えられます。 さらに、畿内の有力な豪族はそれぞれに造営集団を抱えていました。その豪族が滅ぶとお抱えの造営集団 も必然的に消滅しました。別の権力者にとって代わられ 新たな技術者集団が造営することなりました (例として、高句麗系、百済系、新羅系などがいた)。
(2019/02/11 09:42:02:三浦屋)

古墳というものについて、新たに知り得たものがあったので抜粋ですが書き留めておきます。まず古墳の造営は、「造営専門集団」なるプロ集団が存在し彼らの手によって 造られました。使う土砂や石は他の土地から運ばれたのがほとんどです。 石室やふき石を大量に使うので造営集団が石の産地を調査把握して確保しておきました。場合によって、近在に複数の古墳を造営する際はユニット 化しました。例えば、準備チーム、造営チーム、仕上げチームなどを編成して分業したようです。効率的に造営したと察せられます。
(2019/02/09 08:56:17:三浦屋)

1件目~10件目を表示しています。
次の10件 >>

ページの先頭へ