三田地さんの掲示板

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ふたたび、鉄生産の話題に戻りたいと思います。ここでは鉄生産の話が中心 ですが、他に瓦生産、須恵器生産に携わる集団もいて三位一体のものであったそうです。学芸員菅原氏の論文は以下のように表現しております。武井や金沢の製鉄遺跡は近江国の官営製鉄所の技術体系と同一となっています。この技術体系が具体的に、どのような工人の動きで伝えられたのかは必ずしも明確ではありません。そこで研究の進んでいる須恵器生産で、どのような類型設定がされているのかをみてみたいと思います。
(2019/02/17 10:34:20:三浦屋)

また、古墳造営は被葬者が活躍している頃から行われるが、様々な事情で急死した場合などは仮埋葬を実施しあとで完成した石室に遺体を納めたことも十分考えられます。 さらに、畿内の有力な豪族はそれぞれに造営集団を抱えていました。その豪族が滅ぶとお抱えの造営集団 も必然的に消滅しました。別の権力者にとって代わられ 新たな技術者集団が造営することなりました (例として、高句麗系、百済系、新羅系などがいた)。
(2019/02/11 09:42:02:三浦屋)

古墳というものについて、新たに知り得たものがあったので抜粋ですが書き留めておきます。まず古墳の造営は、「造営専門集団」なるプロ集団が存在し彼らの手によって 造られました。使う土砂や石は他の土地から運ばれたのがほとんどです。 石室やふき石を大量に使うので造営集団が石の産地を調査把握して確保しておきました。場合によって、近在に複数の古墳を造営する際はユニット 化しました。例えば、準備チーム、造営チーム、仕上げチームなどを編成して分業したようです。効率的に造営したと察せられます。
(2019/02/09 08:56:17:三浦屋)

福島県南相馬市に、桜井古墳というちょっと目立つ古墳があるので紹介したいと思います。新田川北岸に金沢製鉄遺跡がありますが南岸に桜井古墳群があります。大小40の古墳があり最大のものは前方後方墳で高さ7m、長さ80mあります。被葬者は不明ですが300年代~400年代に築造されたものです。全体的な印象は斬新なデザインで方形やスロープに際立った美しさが見られる古墳です。調査後原形をもとに補修整形した古墳ではありますが、築造当時の姿を維持しており東北らしからぬスタイルです。現在は国指定の史跡となっています。
(2019/02/02 13:23:36:三浦屋)

文面の訂正追加です。鉄生産量の【ピーク】が抜けておりました、あしからず
(2019/01/27 20:22:54:三浦屋)

その決定指示は陸奥国府(郡山官衙)から発布されました。陸奥国をさらに整備していく上で、基幹となる鉄生産体制はこの時点でかなり高いレベルに達していた感じを受けます。日本最大と云われるこの官営製鉄コンビナートの生産量は、のちの陸奥38年戦争(774~811)の時期と重なっていることは注目に値します。
(2019/01/27 14:56:18:三浦屋)

相馬地方の鉄生産は、郡衙ができる前の600年代から実施されてきました。時代と規模のズレはあるものの岩手閉伊地方の鉄生産とほぼ同じ立ち位置にあったと云えます。その後600年代中期の陸奥国建国に伴い宇田郡と行方郡が建郡されたので武井と金沢にある大規模工房群は官営製鉄所として拡大して運営されました。
(2019/01/27 14:41:46:三浦屋)

列島内の道については、古代から 本州内陸部を近江から陸奥まで貫かれていました。600年代後半天武帝の 代に、広域地方行政区画として五畿七道 が整備されました。各国の国衙と連絡しており近江から陸奥は東山道の名称でした。
(2019/01/20 14:16:08:三浦屋)

浜通りの浮田地方は大化改新(645)以降、変化を見せてきます。陸奥国建国以降、相馬の宇田川流域が宇田郡となり南相馬の 新田川流域が行方なめかた郡となりました。遺跡として現在に残るのは新地町の武井製鉄遺跡と黒木田遺跡(宇田郡衙推定地)、新田川北岸に金沢製鉄遺跡 と泉廃寺遺跡(行方郡衙推定地)があり、2つの大規模官営製鉄遺跡群を擁しています。製鉄の技術系譜は遠く近江国(滋賀県 )からとされています。
(2019/01/20 13:47:31:三浦屋)

鹿島の名は全国に散見されます。自然地名もありますが、武神鹿島神宮の鹿島であり 鹿島信仰の名残りと思われます。 蝦夷との戦いにおいては軍神として崇められ朝廷の藤原氏などもよく信仰しました。 航海の神様でもあったため海岸付近に祭られている場合が多いようです。いつの頃からか託宣集団 がいて民間を巡回して歩き稲作豊凶、悪霊退散などの神事や歌舞を行い、鹿島信仰を流布させていきました。その影響もあって鹿島踊り、鹿島立ち、鹿島さま などの言葉を残しました。
(2019/01/13 15:49:27:三浦屋)

さて、福島県の相馬の歴史はどんなでしょうか。真野川流域を中心として浮田国造うきたくにのみやつこ、という古代勢力が大化改新まで存在しました。旧鹿島町辺りで式内社御刀みとの神社があります。浮田は13代成務帝に国造として認められたことになっています。実体は最初に当地方に上陸した豪族毛野けぬ氏が仕切っていたと思われます。毛野氏は、10代崇神帝を祖とする皇族系の一族です。皇統譜では崇神帝は10代目の天皇と記されていますが、初代神武天皇のモデルになったのではないかと言われています。神武天皇がいたかどうかは未だに確認 されておりません。
(2019/01/05 19:48:42:三浦屋)

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