三田地さんの掲示板

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ある郷土史家の調査中のこんな逸話があります。当県A地区に住む一族の半分がそちらの県のB集落に移り住んだという昔の言い伝えがあって、現地の苗字研究者にそれを確認したところ、その伝えならばB集落にも伝わっている、その子孫たちは今でもこちらで暮らしている という話しです。数百年来の言い伝えが現代にも生きている事例です。 以前にも記述しましたが、言い伝えというものは普通100年くらいで消えていくものですが例外もあり得るということになります。
(2020/06/28 13:03:45:三浦屋)

伊賀地方の三田地氏については以前も書いていますので重複箇所多いと思いますがあしからず
(2020/06/22 20:23:07:三浦屋)

戦乱が長く続いたりすると舘や集落の居住人の 住み替えが行われた例は多く、葛西大崎氏は二年に渡り反乱を起こし一族郎党は雲散霧消してしまいました。 推測ではありますが三田地氏の場合も、初めに 住んでいた祖先が伊賀を離れ、そのあと別の時代に小字三田地に人が住み始めたことも考えられます。みた目には同苗ですが一族には血縁がないという可能性です。
(2020/06/21 15:47:28:三浦屋)

三重県伊賀市(旧伊賀上野)の三田地一族について少しふれたいと思います。伊賀市の三田地一族は昭和時代で10世帯くらい居ました。明治戸籍法制定時に三田村の三田地という小字に住んでいたので苗字を三田地としたと伝わっています。こちらの三田地さん達は屋号はないものの江戸時代の元禄頃からの過去帳があると言います。古記録である過去帳だけからみると 伊賀市 の三田地家が古いといえます。一方岩泉の旧家三田地家の代数は現在20代 くらいですが古記録や古い過去帳は幕末から明治にかけてのもののようです。以上のごとく三田地姓は今のところ伊賀地方と岩泉地方の2系統を確認 しています。ただし、伊賀の三田地家にはその昔奥州に一族が移動していったとの伝説らしきものは一切ないそうです。
(2020/06/14 19:47:22:三浦屋)

名族ともなると赴任先に土着して終わりではありません。名取の大同屋敷の祖先は歴史上の主な争乱に必ず現れてきます。前九年の役、奥州藤原氏(平泉)征討、南北朝期は北畠顕家に従い戦国時代は伊達氏のライバルである畠山義継 に組し伊達輝宗しい逆 事件に関わり、ついに天正13年に滅びました。幾度となく戦場を往来し 所領や住居を替え栄枯盛衰 を経て現代に続く 名家と云えます。
(2020/06/07 10:53:23:三浦屋)

北の蝦夷の頭目アテルイ(阿弖流為)が田村麻呂の軍門に下ったのは大同年間の直前である延暦年間であり胆沢城、志和城造営も延暦21、22年(802、803)となっています。※大同年間を起源とする神社仏閣の縁起あるいは天災にまつわる伝説などなぜか多く存在します。これについては後考を待ちたいと思います。
(2020/06/06 09:54:57:三浦屋)

仙台の奥座敷といわれる秋保温泉に佐勘 という老舗ホテルがあります。この家はたいへんな旧家であり確か30代以上の代数だったような気がします。それでも名取市の旧家屋号大同屋敷の分かれだそうです。この大同屋敷の先祖は遠い昔蝦夷征伐のとき鎮守府将軍坂上田村麻呂 に同行して来たといい 、大同年間(806~810)に名取の地に居住したので屋号を大同屋敷としています。
(2020/06/06 09:36:04:三浦屋)

豪族や武士団が本来の姓を名乗らず、所領の居住地名を通称として使い長い間にはそれが苗字となった例は少なくありません。秋保氏もはじめは長崎を名乗ったらしく三代くらい経過の後秋保を苗字としたと伝わっています。気になるのは幕府崩壊による鎌倉の長崎氏滅亡です。すなわち長崎姓を秋保姓に改称したのは 本家が滅亡したことと関連があるのではないか、時期的にも何となく合致するようです。秋保氏(長崎氏)が名取郡の地頭として来住したのは三浦氏が滅んで直ぐではなく、少なくとも30~50年くらい後の事ではなかったかと云うことです。
(2020/05/24 14:50:45:三浦屋)

被官筆頭の長崎氏は、鎌倉時代後期には得宗家以上に権勢を奮うようになっていましたが、元弘3年(1333年)新田義貞の鎌倉攻めで幕府が崩壊したとき北条氏と共に長崎氏はほとんど滅亡しました。
(2020/05/17 21:39:11:三浦屋)

大族三浦氏が滅亡したあと名取郡の藤塚や四郎丸などが北条氏の所領となりました。代官として曽我氏が来住した記録があります。曽我氏は名取郡の地頭、北条氏の代官か秋保氏の代官かよくわかりません。現在名取市の洞口屋敷付近に曽我を名乗る旧家がありますが代官だった曽我氏の流れなのかは不明です。なお曽我姓は東北6県のなかで宮城が最も多いようです。
(2020/05/05 11:07:45:三浦屋)

北条氏は伊豆半島が本貫地でありかつて北条と云われた土地が今でもあるとのことです。北条氏のルーツは平氏であり長崎氏も同様です。他に平氏の流れをくむ名族 は多く三浦、千葉、相馬、曽我氏などが有名です。全盛期には平家にあらずんば人にあらずと云われたそうですが、どれだけマキが大きかったのでしょうか。
(2020/04/26 13:19:14:三浦屋)

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