三田地さんの掲示板

全国の三田地さんに関する掲示板です。三田地さんに関するエピソードや三田地さんの由来、「三田地会」、「三田地」サークルなどの存在や三田地さん限定サービスなどのお得情報等、三田地さんに関することを教えてください。
足跡&一言だけでもぜひお願いします!!
このページは自分のお仕事をPRしたり、ホームページのアドレスを載せてもOKです。 ただし無関係の広告や自分の名前ではないページでのPRは削除します。
※個人を特定できる投稿はしないでください。

この掲示板は 2447名の人に閲覧されています。

投稿フォーム

内容
ユーザ名
削除key
足あと
次の10件 >>

氏家弾正の旧城を改修して政宗に引き渡しました。これが、秀吉の命令による置賜から大崎への国替えで天正19年9月のことでした。
(2018/06/23 20:29:07:三浦屋)

九戸の乱に実は徳川家康も加勢しており福島の二本松に陣を敷きました。その後北上して岩出山に移動、大崎氏の重臣
(2018/06/23 19:52:05:名無し)

足あと(2018/06/23 19:17:46:名無し)

九戸城に籠城した人数は約5000人といわれていますが、内訳は、九戸の家臣だけではなく葛西、大崎、阿曽沼、和賀、稗貫氏の残党や浪人他百姓までいたそうです。このとき、九戸の重臣のもとで戦を指揮した侍大将150人余りは戦終了後九戸城付近で全員首を跳ねられています。さらに籠城したもの者全て、女子供に至るまで抹殺したと言います。数年前の発掘作業でそれを裏付ける相当数の人骨が地下から発見されました。
(2018/06/10 12:53:38:三浦屋)

九戸の乱のとき、総大将豊臣秀次の本陣は宮城県北の岩ヶ崎城におかれていたが乱平定後、首謀者として城主格重臣7名は、岩ヶ崎まで連行され詮議後城外にて全員斬罪に処せられました。その場所が街道沿いに今でも残っています。
(2018/06/10 11:48:21:三浦屋)

周知されました。戦のため逃亡した者についての責任追及は一切ありませんでした。
(2018/06/02 12:45:12:三浦屋)

戦国時代においても戦が終われば戦後処理を行いました。一例をあげると、戦のため逃亡した地元の百姓に対して、田畑の荒廃を防ぐため高札をたてて帰住をすすめました。百姓がいなくなり田が荒れれば年貢取り立てに支障が出るのを防ぐためです。九戸の乱においても秀次軍の有力武将である浅野長政、蒲生氏郷、堀尾吉晴、井伊直政の連名で
(2018/06/02 12:39:22:三浦屋)

ひととおり職能集団について記しましたが、この他にもいます。やはり戦時にはときの権力者に徴用され従軍した例が多いようです。
(2018/06/02 12:18:02:三浦屋)

穴太石工、あのう、と読みます。穴太は比叡山延暦寺の門前町、大津市坂本付近の地名で穴太に住む人たちの祖先は、古来の百済系の一族といわれます。延暦寺造営の頃から石垣、石塔、敷石、石仏など石製品と深く関わるようになっていましたが 、戦国時代には城の石垣構築を手掛けており代表的なものは、まず安土城、聚楽第、金沢城、高知城、小田原石垣山城、姫路城、日光東照宮、江戸城など。安土城造営以降、各有力大名に高禄で召し抱えられるようになり、時には、秀吉派と秀次派の穴太衆同志の対立もありました。職人集団のなかで図抜けて輝いた時期がありました。
(2018/05/26 20:21:07:三浦屋)

治安不安定につながるため徳川政権になってから禁止されました。修験者たちは各農村に定住することになったわけです。
(2018/05/20 13:58:45:名無し)


(2018/05/20 13:51:44:名無し)

1件目~10件目を表示しています。
次の10件 >>

ページの先頭へ