三田地さんの掲示板

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一方、仙台平野の北にあたる大崎平野にも既に政府の城柵が 造営されております。それは大崎市古川の名生館みょうだて遺跡です。ここは和銅6年 (713)に丹取にとり郡を置いたときの中心施設であり丹取柵にとりのさく、とも云うべきものだったと考えられます。この丹取郡は、その後推定724年頃 複数の郡に分割されて、遺跡の所在地は玉造郡と呼ばれるようになったため柵の名も玉造柵と呼ばれるようになりました。根本史料「続日本紀 」に詳しく掲載されております。
(2020/09/26 11:06:51:三浦屋)

七世紀前後の仙台平野の情勢について、東北歴史博物館館長(平成16年当時)の工藤雅樹氏 が説明されております。郡山遺跡の第二期官衙が機能していた時期には、広大な陸奥国から磐城と磐瀬 が分立し陸奥国は仙台平野と大崎平野だけからなる小規模な国だった段階があります。郡山官衙はこの頃国府の役割を果たした城柵でした。そして神亀元年(724)直前に磐城国、磐瀨国を廃止して広域の陸奥国を復活させました。新しい体制で東北の支配を行うにあたり、新体制の陸奥国の役割を担う城柵として多賀城が造営されたと云っています。
(2020/09/26 10:46:43:三浦屋)

前述しました通り白鳳期の文化というと600年代半ば以降です。東北だと郡山官衙が在った時代で多賀城は未だ存在しておりません。第二期郡山官衙になると官衙南側に付属官寺が造営されています。多賀城にも付属官寺(廃寺跡)がありましたが、郡山との関連は不明です。郡山官衙から多賀城への移行は時代的に必要に迫られた結果であると思われ地震や津波の痕跡はなく暫時官衙機能を移しております。多賀城政庁竣工後も北側の築地塀は未だなかったそうです。
(2020/09/13 15:26:50:三浦屋)

天武帝、持統帝は諸国に造寺を奨励しました。伊賀にもこのとき大寺院が造営されたと考えられます。史跡である三田廃寺はおそらくこれに該当すると私的には思います。三田廃寺の出土瓦には白鳳期の軒丸瓦をはじめ法隆寺式、東大寺式、平城宮式軒丸瓦などがあり官寺的色彩の濃い寺院跡と推定されております。白鳳、奈良期の寺院遺跡しかも官寺系瓦を多く出土する廃寺は阿山郡三田の三田地付近以外に見当たりません。
(2020/08/30 14:43:06:三浦屋)

ちょっと前に多賀城政庁の話題を出しましたが、現在多賀城 南門(正門)の復元工事が始まっており2024年に竣工するそうです。多賀城は新設当初700年代初頭(奈良期)は東門が正門の代わりを果たしていましたが、蝦夷の焼き討ちにあいました。その後、 平安期に なってから少し西側に位置をずらし土塁と左右望楼を増設してより堅固な構えに 変化しております。
(2020/08/23 09:35:24:三浦屋)

他参考までに四大寺、南都七大寺、十五大寺などの通称分けもあります。
(2020/08/14 15:15:39:三浦屋)

五大官寺と云われているのは、奈良の法相宗興福寺、滋賀の天台宗延暦寺、同県天台宗の三井寺(園城寺)、京都の真言宗東寺(教王護国寺)そして奈良の華厳宗東大寺 です。また、鎌倉仏教日蓮宗の開祖日蓮はまだ若い頃延暦寺や三井寺で修行しており、さらに高野山真言宗 金剛峯寺(開祖空海)にも登っています。
(2020/08/14 15:01:06:三浦屋)

世に様々なお寺がありますが、官寺とは何だろうか?官寺とはその造営、維持、管理が国家によって行われ私有荘園を持つことも許可されている別格の寺院です。官寺の一つである奈良東大寺は、天平15年(743)に聖武帝から造営許可の詔が 発布されました。これにより資金調達、造営場所や設計工法など 相当に吟味された形跡があります。尚、東大寺は全国の国分寺の総本山の地位にあり国分寺の造営指示は天平13年(741)に 発布されています。
(2020/08/14 09:04:57:三浦屋)

【白鳳期】はあまり耳慣れない言葉ですが、大化元年(645)から和銅3年(710)平城京遷都までの飛鳥時代を指します 。65年間のことになりますが、天皇は、孝徳、斉明、天 智、弘文、天武、持統、文武天皇の各時代となります。
(2020/08/13 14:50:36:三浦屋)

伊賀の阿山郡三田は古来から政治的中心地 であり小字三田地あたりが三田廃寺跡に比定されており近世には三田廃寺が伊賀国分寺とも考えられていたようです。かつて三田地付近からは弥生中期から古墳期に至る土器が出土しています。西隣りの地区からは 条理遺構 が確認されています。日本書紀に屯倉みやけ、屯田みたの一つが当村にあったので三田郷の名称も御田、屯田に由来すると云われます。この辺りは白鳳期造営の三田廃寺 のほかに安国寺、安福寺、空鉢寺など中世寺院跡も多く残っています。奈良時代の国分寺衰退後、中世には三田廃寺が一時国分寺を称したと云われます。
(2020/08/13 12:42:51:三浦屋)

一般的に国府の平面的な大きさは方八町か方四町と云われていますが、伊賀国府は地形的制約があって小規模な造りでした。政庁は50m四方(多賀城政庁は東西103m南北116m)であり、発掘の結果珍しく瓦の出土 はなく掘立て柱建物の構造だったことがわかっています。
(2020/08/12 16:59:24:三浦屋)

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