三田地さんの掲示板

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府金ふがね、下新屋しもにいや、下河原、古屋敷、上下かみした、萬屋、茶屋の下、上新屋かみにいや、三菱、上宝呂林かみほうろばやし、北辰ほくしん等の屋号があります。また中新屋という屋号がありますが三田地姓ではありません。古屋敷は、先祖がかつて住んでいたことによる意味だそうです。沢廻り地区は龍泉洞を経由して流れてくる清水(しづ)川 沿いの村です。山裾側一帯が小字府金ふがねとなっており、初めに村に住むことになった三田地家が府金の屋号を用いてます。府金の語意は南部藩の砂鉄管理の役所役宅であるとか、ズバリ産金地であるとかと云われています。府金三田地家は二十代ほど続く旧家であり江戸時代は肝煎り(名主)を務めた家だそうです。北上山系は 元々砂鉄、砂金の産地だったようで藩政初期は特にゴールドラッシュの時代だった記録があります。
(2019/08/15 15:37:49:三浦屋)

現在は岩手県の岩泉地方に三田地姓は多いのです、が、ここが古郷ではなくいつの時代にか祖先が他地方から移住してきたと思われます。沢廻り地区を中心に室場、鼠入川地区などにも同苗字が広がっているので、様々な 屋号を 名乗り 区別を行っています。
(2019/08/15 14:46:02: 三浦屋)

名乗る場合が多くみられます。百姓町人 の身分であった家々は苗字を持たなかったとよく勘違いされるところですが、どこの家でも先祖伝来の苗字は過去帳や口伝などで伝えられていたのが一般的です。幕府の決まりにより公称出来なかったというだけでした。屋号は庶民のあいだでは実質的に苗字の代わりとなり村社会においては何かと都合がよかったようです。地方の商家などでは、先祖の発祥地を屋号としました。それは旧国名であったり地名だったりします。その他としては、紋章、商標、商品名及び吉祥を祝ったものなどがあります。器の名や植物名、魚や鳥の名など風流系もあります。
(2019/08/14 16:33:59:三浦屋)

最近、ひさびさに屋号というものに接したのでお伝えいたします。昔から同じ苗字の集まる同族地区などで互いに区別するため、各家で屋号を
(2019/08/14 16:00:04:名無し)

塩釜神社というのは全国で113社あるそうですが、国家と関わっていない例が多く一般的に社格は皆低く信仰が土着的です。こういった状況のなかで陸奥一宮ともなった塩釜大明神は奈良期の多賀城造営以来、国家の奉幣に預かった別格の神社となった訳です。多賀城の海側玄関 といえる千賀の浦、国府津に鎮座する塩釜大明神は国府多賀城の守護神として繁栄拡大していきました。塩釜大明神は式内社に列せられていませんが、その有無は当時の政治的要素が大きく関わっています。式内社の格を持たない大社も少なくないようです。
(2019/08/03 10:29:42:三浦屋)

塩竃神社の由緒は旧国幣中社であり元は縄文以来からの製塩の神を祭ったものです。現在境内にある鹿島、香取両神宮と志和彦神社はあとから合祀しました。塩釜の字は略字でありまして本字は竈を使うのだそうです。なぜ、竈カメなのかについては、古くから竈カメ を使った製塩を行っていたことによります。松島塩竃湾一帯では縄文、弥生、多賀城時代と集中してカメを使った大規模製塩事業が行われていました。松島湾には縄文、弥生の拠点集落の遺跡が多く、多賀城時代は製造した大量の塩を国府に収めていたそうです。
(2019/07/28 10:18:21:三浦屋)

滋賀県多賀町には、本家本元の多賀大社が鎮座しています。古事記にも記録がある古社で旧官弊大社の社格でした。末社の数は実に全国で230以上あります。また、原始信仰の形を残しており奥の院を青龍山と称して磐座(巨石)を御神体として祭っています。そもそも日本列島の古代信仰は、山や滝、大木、巨石などそのものを神として祭っていました。古代からのこの聖域に多賀大社の名を冠して国家祭祀の神社と定めたのは、おそらくは後から来た権力者 でしょう。そもそも神社に社殿を造ったり御神体を設置するようになったのは、列島に仏教が伝来してからの事であると 云います。いうなれば、社殿やご神体の設置は多分に仏教の影響を受けております。
(2019/07/21 10:45:54:三浦屋)

陸奥総社は旧村社であり、祭神は塩の神二神となっています。塩釜神社の南西約2kmのところに鎮座しています。
(2019/07/14 10:19:36:三浦屋)

大日本史神祇志に、延暦15年に多賀社を含む宮城郡の四座は延喜式式内社として格付けされた記録が残ります。式内社はこの頃に既に社殿があり神官が常駐した神社です。時代の変化と共に平安中期以降 、総社制度が全国に浸透するにしたがって陸奥国もこれにならい総社が建立されました。この場合は、多賀社の地を総社とし、あわせて国内諸社の神々を勧請したと推測されます。
(2019/07/14 10:01:50:三浦屋)

前回の記事を含めて、故押木宮司編著による「塩釜神社」によれば、塩釜神社に詣でる人はまず陸奥総社を拝さなければならないという伝えがあるそうです。これは総社の前身が多賀 社であったことを意味するのではないか、すなわち、多賀城造営時に今の総社宮の地に多賀社が建立されており、国府在庁の官人から朝夕の尊崇を受けていたわけです。総社付近からは奈良時代の官衙附属 施設が発掘されています。
(2019/07/13 14:57:41:三浦屋)

神社名に多賀神社がありますが、多賀城とは関係あるのでしょうか 。以前、多賀城の遺跡発掘で今の東門付近から奈良時代の施設遺構が見つかっています。その場所は陸奥総社 付近であり多賀城の附属施設遺構であると云われています。 多賀城付近に多賀神社らしき小社がありますが発掘の結果施設跡らしきものは見つかりませんでした。式内社多賀神社は特に東北に多く祭神は伊邪那岐、伊邪那美の二神であり国産みの 神と云われています 。ヤマト王権、律令政権の東方進出に関わる国土創成の神です。それがいつの頃からか社殿の存在すらハッキリしなくなってしまいました。国府多賀城と最も密接であるべき神社がこのように不明となったのは何らかの理由があると考えられます。
(2019/07/07 19:11:11:三浦屋)

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