三田地さんの掲示板

全国の三田地さんに関する掲示板です。三田地さんに関するエピソードや三田地さんの由来、「三田地会」、「三田地」サークルなどの存在や三田地さん限定サービスなどのお得情報等、三田地さんに関することを教えてください。
足跡&一言だけでもぜひお願いします!!
このページは自分のお仕事をPRしたり、ホームページのアドレスを載せてもOKです。 ただし無関係の広告や自分の名前ではないページでのPRは削除します。
※個人を特定できる投稿はしないでください。

この掲示板は 2685名の人に閲覧されています。

投稿フォーム

内容
ユーザ名
削除key
足あと
次の10件 >>

兵たちの活躍する場がなくなるのが目に見えており、浅野氏や蒲生氏の人減らしを南部氏が受け入れたことになるでしょうか。その押し付けられた人数は数十名ではなく何百、何千単位だったとも云われています。仮に、百石~四百石知行のものでも数名から十名程度の従者を抱えているから押し付けられた実数が想像出来ると言うものです。また、主人が帰農することになれば主従関係は基本的になくなりますが、多くは近在に住んだようです。
(2018/08/15 09:46:55:三浦屋)

戦の時代がひとまず終わり
(2018/08/15 09:24:50:名無し)

ただし、このような雑兵たちは南部氏に預けられても知行地は与えられず各村落に配置されて開拓などに従事したと思われます。その結果子々孫々まで南部領に住むことになったのだと察せられます。推測では浪人、雑兵だけでなく非戦闘員である職人たちも押し付けて行ったのではないかと考えています。先祖は蒲生氏の家来であったとか千徳城から落ち延びて来た、伊達領で刀鍛冶だったなど各家の持つ伝承は多彩です。三田地家の先祖も京都で刀鍛冶であったと云われています。
(2018/08/15 09:18:32:三浦屋)

浅野氏、蒲生氏の家臣数十名に知行を持たせるように南部氏に指示した記録があり、氏名、知行地、石高がわかっています。九戸の乱は、最後の大戦と予想されていたので、秀吉子飼の浅野氏や蒲生氏でさえゴマをすって各国の雑兵や浪人を臨時に多くかき集めました。
(2018/08/12 19:07:49:三浦屋)

とにもかくにも、九戸の乱は北奥にとどまらず奥州全体の中でひさびさの大乱でした。このような大規模な戦は、坂上田村麻呂や前九年後三年役あるいは源頼朝の平泉征討以来でしょう。九戸城落城後、戦後処理の一環として浅野氏、蒲生氏は自分の家臣の一部を南部氏に預けて帰国しています。南部氏の記録では「押し付け」となっています。他藩は調べていませんが、津軽氏や最上氏に対しても押し付けがあったかも知れません。
(2018/07/28 19:38:01:三浦屋)

名乗りは本名を使わず居住地名を名乗るのが普通でした。豊臣政権下においてもこれは引き継がれました。
(2018/07/14 15:17:56:三浦屋)

一戸、三戸、七戸氏も南部の血筋ですが長い間に九戸氏も混同された可能性が無いこともない。戦国大名等
(2018/07/14 15:12:59:名無し)

歴史は勝者によって作られていると云われます。負けた九戸氏の歴史は勝者である南部氏によって全ての事跡が改竄されねじ曲げられて伝えられました。南部氏は手の届く限り九戸氏を悪者として記録しました。
(2018/07/14 15:00:26:名無し)

足利幕府13代義輝覚書に、北奥の大名として九戸五郎、二階堂(政実)、南部大膳亮(24代晴政)の2 名が見えます。足利幕府の記録までは改竄できなかったようです。
(2018/07/08 19:55:38:三浦屋)

この話題の根拠は、一級史料群書類従に納められています。
(2018/07/08 19:43:45:名無し)

政実は人望も厚く当時は南部氏の勢力を上まっており、危機を感じた信直が秀吉に泣きついたということになりマス。政実が南部氏の家臣ではないことを見つけた人は歴史研究家の工藤氏です。平成15年の盛岡タイムスに発表しています。
(2018/07/01 09:57:28:三浦屋)

1件目~10件目を表示しています。
次の10件 >>

ページの先頭へ