三田地さんの掲示板

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後漢の末期184年に黄巾の乱(組織的な農民が主力であった)が起きました。結果は後漢の勝利でしたが、これを契機に後漢は衰退の一途を辿りついに滅亡してしまい、世の中は魏呉蜀の三国時代に移っていきます。ですが、この群雄割拠も終わりをつげます。この後漢や三国時代の滅亡の影響で日本の古墳時代の人口が爆発的に増えていきました。
(2024/03/24 22:18:47:三浦屋)

これはネット記事からの抜粋ですが、縄文中期である4000年〜5000年前の人口密度は関東地方が最も多く300人/100km²、東日本全体としては100人 /100km²、西日本はわずか20人/100km²しかいませんでした。縄文時代は東日本の方が暮らしやすかったようです。ちなみに、100km²とは10km✕10kmの範囲で例えば猪苗代湖くらいの大きさです。山手線の内側の約1.6倍の広さという事になりましょうか。
(2024/03/23 13:29:11:三浦屋)

弥生時代までに列島に流入してきた人たちは主にツングース系であり満族や女真族の後裔が多かったのです。弥生時代までは100万人にも満たなかった列島の人口は、古墳時代に入ると急激に増えて540万人の人口になりました。なんと弥生時代の9倍の人口になります。これは中国の黄河流域を中心とした漢民族の移民がほとんどと云われています。日本の古墳時代は後漢の後半期であり戦乱に明け暮れた時代でした。言ってみれば大陸から渡ってきた大量難民というわけですが、多種多様の技術を持ち合わせており在地人である倭族と交流して列島に自然に溶け込み根付いていったと思われます。これが私どもの祖先のルーツです。
(2024/03/20 19:38:12:三浦屋)

大化改新以降、律令国家は宮城を始めとして東北全体に数多くの官衙を割と短期間に集中し造営してきました。前述のごとく相当数の人員と技術者が動員されたわけですが、この事に関する新たな記事を見つけました。ここ数年のあいだに、ヒトの遺伝子などについての解析が急速に進み日本人のルーツがさらに具体的に判ってきました。端的に説明しますと、弥生時代の列島の人口は約60万人でしたが、古墳時代になり圧倒的に急激に増えています。その数は弥生時代の9倍の540万人です。縄文時代は最大で27万人と云われています。奈良時代の700年代中頃は600〜700万人と予想されています。
(2024/03/17 19:30:53:三浦屋)

神護景雲元年(767年)伊治城の造営は着手されて3年後に栗原郡を建郡しました。前述したように、栗原の文字は後年になって変換した形跡があります。政府に帰属していた関東などからの移民集団は部姓を与えられて城柵の周辺に居住していました。結果的に城柵を抱えている地域は周辺より早く建郡できたわけです。もう一つ、政府に帰属していた蝦夷は君や公の姓を与えられ多くは従来の土地に住む事を許されていたのです。これらは此治郡コレハルと称されちょっと遅れて778年〜780年の間に建郡されました。
(2024/03/09 10:49:27:三浦屋)

さてここでは、伊治城や伊治公呰麻呂の『伊治』について言及します。此治コレハルの字を当てる事もありますが、訓読の一致があるので間違いではありません。億ウソ流では伊治はエゾ(エミシ、蝦夷)に相当します。初めにエゾの発音があって伊治の字を当てたものと思われます。此治コレハルや栗原クリハラの名称は後のことでしょう。明治維新のとき、北海道開拓においてアイヌ語地名に日本語を当てた事例とまったく同じです。伊治公呰麻呂はエミシ(東北)出身であり、紀広純や道嶋大楯は東北に居ますが移民系豪族の出です。
(2024/03/08 19:42:50:三浦屋)

それにしても、乙巳の変のあと律令政府は相当数の人員、技術者をもって郡山官衙や多賀城、伊治城他多くのの官衙を東北に造営しています。海岸線や大小の河川を利用し或いは運河を開削しながら人海戦術で造られてきた政府の城柵と思われます。伊治城にしても奥大道に近いとは言えだいぶ内陸に立地しているので、北上川や迫川の水運を使って造営したのでしょう。おそらく当時の多賀城政府高官である紀広純そして牡鹿郡の郡長道嶋大楯が栗原地方を管轄していた伊治公呰麻呂を通して土地提供させたと考えられます。
(2024/03/03 19:48:39:三浦屋)

またまた大野田地区の『王の壇』のことになりますが、付近のマンションに王の壇の名前が使われております。よくよく見ると、王の壇遺跡が残っていて説明板まであることが今さらながら判りました。土地区画整理事業で発掘調査を終えすっかり消え去ったものと勝手に考えていましたが、その位置を特定できて幸いです。ラーメン店の南側にあります。円墳らしき高まりを残していますが、発掘記録画像では完全に床盤まで掘り下げていますので、モニュメントとして作業後に土盛りしたものと思われます。被葬者は、葺き石の使用や副葬品から想像すると王権に尽力したこの辺りの族長だったと想像されます。
(2024/03/02 21:42:01:三浦屋)

表記が後れたかも知れませんが、春日社古墳の発掘は1990年代に実施されました。地下鉄駅周辺エリアの土地区画整理事業に伴う発掘作業でした。その後、この画一的なデザインの革盾は随時列島各地から発見されたものの、畿内中枢部である古市、百舌鳥、桜塚古墳群での明らかな分布集中が見られることがわかりました。すなわち、制作配布がこれらの古墳造営者集団の掌中にあったと考えられるとの見解です。
(2024/02/24 16:33:19:三浦屋)

再び、春日社古墳の革盾の話題に戻りたいと思いますが、あの斬新なデザインや異なる構造の皮盾はまったく唐突に出現しており、それは新たな政権の確立を物語っている事にもなります。すなわち新しく創出した革盾を配布することで改たな政治的関係や同盟関係または階層関係をかたちづくったとの見解を専門家は示しています。
(2024/02/24 08:52:34:三浦屋)

九州の磐井や岩手県磐井郡にしても語源はどうやら『岩』からきていると考えられます。すなわち御神体になるような山上の岩であり巨岩です。仏教が列島に渡ってくる前は日本では自然の滝、山、巨石、大木などを敬い信仰の対象としていました。磐井郡の場合は須川岳(栗駒山)が神様として祀られていたようです。宮城県北では古くから栗駒山がよく祀られていました。大崎地方に点在している『山神社』がそうです。岩手県では須川岳と呼ばれ、宮城県では栗駒山と一般的に呼ばれていますが同じ山です。 
(2024/02/17 20:28:14:三浦屋)

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