三田地さんの掲示板

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(2018/10/15 06:21:19:名無し)

陸奥国建国は654年、孝徳帝の代のことでした。国の広さは、宮城県中央部以南~福島県全域、茨城県北西部までありました。国府は仙台市にある郡山官衙であり多賀城はまだありませんでした。この時代は「日本」の名称もないいわゆる「倭」の時代 でした。
(2018/10/08 10:29:22:三浦屋)

話は前後しますが、古くからみちのくの中心地のひとつである奥六郡といわれるエリアがあります。胆沢、江刺、和賀、志波、稗貫、岩手の六郡ですが、現在の郡境はほとんど律令時代のままとなっています。古代から北上川流域を中心とした肥沃な平野は労働力、生産性の高い広大な流域でした。奥六郡は、奈良時代の坂上田村麻呂の奥羽進駐 が契機となり、その後900年代半ばに岩手郡独立をもって六郡が整ったといわれます。
(2018/09/30 17:08:36:三浦屋)


(2018/09/30 10:11:03:名無し)

前九年役と後三年役は奥羽の歴史にインパクトを与えた戦いでしたが、所詮勝者側の記録であり実際は区切りのある戦いではありませんでした。が、このさなかに閉伊郡独立のキッカケとなった闘いがありました。1070年、延久2年の「延久蝦夷合戦」で源氏. 清原連合軍が蝦夷側に勝利し下北津軽までが初めて日本国となりました。前にも記しましたが、閉伊地方は700年代に既に郡政の体をなしていたので律令政府に建軍の申請をしました。ところが許可されなかった経緯があり、建軍まで実に250年を要した訳です。
(2018/09/17 10:52:47:三浦屋)

アテルイの反乱が治まり802年に胆沢城造営、翌年に志和城を造営します。蝦夷勢力の拠点だった地方にクサビを打ち込んだわけですが、この時点でも閉伊地方は建郡されず蝦夷社会は続きました。
(2018/09/09 14:16:43:三浦屋)

三陸、宮古の鍛冶たちはどの系譜に属するのかこれも定かではありませんが、どうやら三陸地方独自の方法ではないかということです。確定したことではありません。江戸時代になるとまた状況が異なります。また長い間民間工房として続いたため鍛冶工人たちも権力者に取り込まれました。古代から鍛冶がさかんだったので、専門家は王権による搾取の有無の存在をもけんとうの対象にしています。
(2018/09/09 14:00:30:三浦屋)

宮古の鉄器生産規模について。遺跡発掘の結果、通常鍛冶工房は一集落に1ないし2棟ですが、恒常的に10棟以上の工房が存続した形跡があります。工房を改造して居住地にしたり、住まいを改造して工房にしたり変化工夫の跡を残してるそうです。
(2018/09/02 14:37:36:三浦屋)

宮古地方では鉄器生産、供給だけでなく以前からメンテナンスの体制があったようです。鍛冶工人の行商が渡り歩き鉄器のアフターケアを行っていたというから驚きです。但し刀鍛冶の存在については今一つ判っていませんが、鉄器製造において釘や鉈はあったと思うので蕨手刀くらいはキャリアがあればアフターケアは可能だったと想像しています。
(2018/09/02 14:18:45:三浦屋)

閉伊郡の建郡が認められなかった為、北奥の蝦夷社会は力を蓄えることができました。宮古地方の大規模鉄器生産地から引き続き志和、胆沢地方の蝦夷勢力に供給は続けられた結果、アテルイなど抵抗勢力 が 出現してきました。
(2018/09/02 14:00:04:三浦屋)

刀鍛冶集団である舞草鍛冶は平泉の没落とともに全国に散らばり各刀鍛冶の原形となっています。北上山系は古くから鉄、砂鉄の産地であり鍛冶や製錬は盛んであり、700年代に律令政府に建郡の希望を出しましたが許可が降りなかった事実が残っています。官営工房ではなく民間工房として志和、胆沢地方へ鉄器供給を続けていましたが、刀鍛冶がいたかどうかはわかっていません。宮古の遺跡からは直刀、蕨手刀などが見つかっています。
(2018/08/26 13:47:56:三浦屋)

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