内藤さんがみなさんに慕われているか、またはご本人が苗字にどれだけ愛着があるかについて、本ページの「内藤さんの苗字レベル」により苗字にたいする愛を示してくれた方々ポイントをもとに判定しています。
内藤家長
|
ないとういえなが |
生没:1546~1600 |
徳川家の松平時代からの譜代家臣。幼少時より家康に仕え三河一向一揆平定に活躍、以後多数の合戦に参加したが、関ヶ原の合戦時に鳥居元忠とともに伏見城で戦死した。 |
内藤義清
|
|
|
|
内藤興盛
|
|
|
|
内藤弘矩
|
|
|
|
内藤弘春
|
|
|
|
内藤綱秀
|
|
|
|
内藤国貞
|
|
|
|
内藤宗勝
|
ないとうそうしょう |
生没:?~1565 |
松永長頼。戦国の梟雄松永久秀の弟。三好長慶のもとで軍功を挙げ天文二十二(1553)年に丹波八木城主となり、のちに氷上郡を除く丹波一国を支配。丹波守護代家内藤国貞の娘を娶って同氏を嗣ぎ、蓬雲軒宗勝と号した。飛騨守如安は実子とも養嗣子ともいうが不明。永禄八(1565)年八月に丹波黒井城の赤井直正と和久郷にて戦うが、大敗を喫して戦死。 |
内藤勝介
|
|
|
|
内藤昌月
|
|
|
|
内藤昌豊
|
ないとうまさとよ |
生没:?~1575 |
武田信玄・勝頼に仕えた重臣で上州箕輪城代。「四臣」の一人で通称修理亮、元の名は工藤源左衛門。北条家との三増峠の合戦では小荷駄奉行を務めた。長篠合戦の際には勝頼を諫めるが叶わず、自殺的に敵に突っ込み戦死と伝える。 |
内藤信成
|
ないとうのぶなり |
生没:1546~1612 |
三河一向一揆以来の家康の側近。徳川家譜代として活躍、古くは尾張丸根城・三河挙母(ころも)城攻めに戦功を挙げる。三方が原の戦いでは殿軍を、長篠合戦では先手を務めて活躍した。後に近江長浜四万石の主。 |
内藤政長
|
|
|
|
内藤正成
|
ないとうまさなり |
生没:1528~1602 |
内藤清長の甥。弓術の達人で、初め上野城の伯父のもとにいたが、その腕を買われて松平広忠に仕官。以来広忠・家康二代にわたって仕えた徳川家譜代生え抜きの家臣で、徳川十六将の一人。 |
内藤清成
|
|
|
|
内藤清長
|
|
|
|
内藤如安
|
ないとうじょあん |
生没:?~1626 |
諱は忠俊、のち徳庵を号す。飛騨守。内藤源左衛門の子とも松永長頼(内藤宗勝)の子ともいうが、いずれにせよ長頼ののち丹波八木城主となったキリシタンで、受洗名ドン・ジュアン。のち秀吉に仕え、文禄の役には小西行長の与力として渡海、この頃は小西如安とも称した。関ヶ原合戦後は加藤清正のもとを経てキリスト教の理解者であった前田利長に仕えたが、家康の禁教令にも棄教せず慶長十九(1614)年に高山右近や妹ジュリアらとともにマニラへ追放された。寛永三(1626)年に同地で病没。 |
内藤隆春
|
|
|
|
内藤隆世
|
|
|
|