斎藤さんがみなさんに慕われているか、またはご本人が苗字にどれだけ愛着があるかについて、本ページの「斎藤さんの苗字レベル」により苗字にたいする愛を示してくれた方々ポイントをもとに判定しています。
斎藤義龍
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さいとうよしたつ |
生没:1527~1561 |
元美濃国主土岐頼芸の子とも言われ、その生まれをめぐり父道三と対立し、家臣団も二派に分かれた。しかし大勢は義龍に傾き、長良川河畔での道三との戦いの末その首を取る。体が大きく合戦にも強かったとされるが、若くして病死した。 |
斎藤信吉
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斎藤信利
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さいとうのぶとし |
生没:?~1610 |
越中の国人で通称次郎右衛門。はじめ信和を名乗り、のち上杉謙信に従う。謙信没後は織田方につき信利と改名した。天正九年には逆に上杉景勝側につき佐々成政に抗するが敗れ、義父の飛騨三木良頼を頼った。 |
斎藤正義
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斎藤朝信
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さいとうとものぶ |
生没:?~1591 |
上杉謙信・景勝の重臣で下野守を称す。越後刈羽郡赤田城主。謙信の奉行職を務め、越中方面攻略や下野佐野城攻めで活躍。御館の乱の際には景勝側につき軍功をたて、後に越中富山城や信濃海津城の守将を務めた。 |
斎藤鎮実
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斎藤道三
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さいとうどうさん |
生没:1494~1556 |
何度も名を変えたが、最終的には山城守利政。蝮の異名を持つ戦国屈指の謀将。一介の油売りから身を起こし、美濃守護土岐氏に出入りを許されたことをきっかけに謀略の限りを尽くして美濃一国を手中にしたとされるが、これは道三の父と二代にわたってのこととする説が有力。娘は織田信長の妻。土岐頼芸の子との噂があった長男の義龍と対立し、長良川畔で戦って討死。 |
斎藤徳元
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斎藤彦四郎
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斎藤兵部少輔
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斎藤又四郎
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斎藤妙純
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斎藤妙椿
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斎藤利興
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さいとうとしおき |
生没:?~1582 |
斎藤道三の子で義龍の弟。名は長龍とも。通称新五または新五郎。道三と義龍が争いだした頃、美濃より脱出し信長の下に寄食、永禄八年に二千百八十貫の所領を宛われた。のち佐藤紀伊守忠能の娘を娶って養子となり、美濃加治田城主となる。各地を転戦して戦功を挙げたが、本能寺の変の際に信忠と共に二条御所で討死した。 |
斎藤利賢
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斎藤利三
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さいとうとしみつ |
生没:1534~1582 |
元斎藤義龍の家臣で、後に明智光秀の家老を務める。母は明智光秀の妹で、光秀の甥に当たる。有能な武将であったが山崎の敗戦後に近江で捕らえられ斬首。娘は徳川家光の乳母・春日局。 |
斎藤利治
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斎藤利宗
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斎藤利親
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斎藤利茂
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斎藤利良
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斎藤利堯
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斎藤龍興
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さいとうたつおき |
生没:1548~1573 |
斎藤義龍の子。十四歳の時に父義龍が病死したため美濃稲葉山城主となるが、家臣の竹中重治に一時城を占拠されたり、重臣の西美濃三人衆が離反したりと斜陽の斎藤家を立て直せず、遂に織田信長に攻め落とされた。囚われの身となるが釈放され伊勢長島から越前朝倉氏を頼るが、信長の朝倉攻めの際に刀禰坂の戦いで戦死。 |