三田地さんの掲示板

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仙台城本丸南側に大番士土手と云われてきた土塁が今でも残っています。本丸の外堀に該当する竜の口渓谷側に対する防衛線、結界であります。大番士は200石取りで馬上の身分です。土塁の外側を守る役目であり土塁を越え侵入する者を捕縛、手打ちにする権限が与えられています。以前、この大番士を先祖に持つ人が伊達藩志会(伊達家臣の子孫グループ)にいて多少の話しをお聴きすることができました。
(2021/10/09 20:28:41:三浦屋)

城南側の防御である竜の口渓谷は深さ70mの断崖絶壁ですが、ある側点から推測すると現在より5m 程谷が浅かったと推定されています。竜の口渓谷を兵が上がったり降りたりする事は今より難易度が低かったと云うことになるでしょう。伊達家の『御内試』は若し徳川軍に仙台が攻められたら、を想定したいわば秘密作戦です。古書『東奥老士夜話』には、御裏林(城背後)から砂押へ馬を進めて鉄砲薬蔵の南方にある丘陵三神峰に本陣を置き敵と対陣する 旨の記録が残っており、政宗みずから機動演習を実施し見分した形跡があります。この作戦は正奇のうち奇に属します。
(2021/10/02 22:13:44:三浦屋)

国土地理院25000、50000分の1地図(明治~昭和)をつぶさに見ると間道らしき道が残っているのがわかります。自然地形いわゆる等高線沿いに上手く道が附けられており谷は避けています。騎馬武者隊や荷駄隊が通る道は堅固でなければなりません。現在で言うと青葉山ゴルフ練習場南側に標高200mの高地がほんの少し残っています。東北工大グラウンドの山側というのでしょうか。二の丸奥の山屋敷やまやしき経由でこの高地を目指すようにだらだらと道が続いています。この200mの高地が各方面の分岐点になっている様子がうかがえます。
(2021/09/26 19:44:36:三浦屋)

仙台城本丸の北西部は深い断崖の続く竜の口や御裏林の広がるいわば城の搦め手部分であり埋(うずみ)門 、酉(とり)の門、切通(きりどおし)門と3ヶ所の門がありました。故県立図書館長の佐々久氏は郷土史研究家でもありましたが、若い頃に埋門あたりから竜の口の底まで実際に徒歩で降りたことがあったそうです。ただし70mの断崖絶壁をそのまま降りた訳ではありません。藩政時代からの山道が細々と付いているのを知っていたうえでのことです。逆に、竜の口の谷底から八木山に登る小径も太白区の詳細地図に表示されています。これなども地形上の盲点を突いたものであり、一旦緩急の際は本丸埋門より谷底に徒歩で降りた後、八木山側に登り三神峰高地に先行して歩兵部隊を秘密裏に展開させておき敵のウラをかくことも容易に出来たのではないかと考えられます。
(2021/09/20 10:39:22:三浦屋)

徳川のような大軍ともし戦かわばを想定した場合、海や平野部より山や谷に兵馬を展開させて縦横無尽、神出鬼没な機動戦に重きを置いたほうが撹乱持久できると考えられます。或いは冬季間の雪を戦いに利用することも可能です。仙台城搦め手側には綱木や折立、佐保山、蕃山を含む郷六と云った小拠点が点在し茂庭や愛子あやしに連絡できます。これらのルートは村田城や川崎城、根白石城に連携し敵軍の背後を衝くこともできます。さらに上愛子の白沢地区で秋保方面さらに青根、遠刈田側にも道は通じており伊達軍は広範囲に自在な動きをとるなかで勝機を伺うのかも知れません。
(2021/09/19 10:29:09:三浦屋)

昭和42年発行の名著『仙台城』では、万一仙台攻めにおいて伊達軍が形勢不利に陥いった場合、政宗ゆかりの地である米沢山形方面へ拠点を移す想定をしていたのではないかとしています。ただ、あの群雄が割拠した戦国時代、政宗の青山は所々に存在したわけであり、故郷を終焉の地と定めたような形跡はありません。何よりも、ライバルの上杉景勝が米沢城に転封されて居城しています。
(2021/09/12 17:12:29:三浦屋)

青葉山直下に地下鉄東西線の駅があるその地上部は雑木林の続く丘陵地帯が広がります。現在は東北大学や宮城教育大学のキャンパスとなっていますが、以前はゴルフ場があり山の上ながらアップダウンの少ない良いコースと思って観ていました。築城においては大手があれば裏門、搦め手はかならず存在します。この城の裏手は抜け穴や隧道をわざわざ造らなくても逃走経路は山道を少し切り開くだけで十分だったのではないかと考えるところです。年寄り、女子供でも夜営さえ出来そうな地形となっています。また、落城時は川を下って落ち延びた例もあります。
(2021/09/12 12:50:09:三浦屋)

仙台市は2015年に地下鉄東西線を開通させています。ここで注目すべきは西方の東北大学側、青葉山駅前後~竜ノ口間です。青葉山の地下にトンネルを掘っているわけですが、工事中に空洞に当たった形跡はなかったのか或いは調査時にほら穴などの発見はなかったのか等聴いてみたいところです。
(2021/09/05 20:00:06:三浦屋)

第31代伊達邦宗は明治以降の当主でした。ただ明治以降の人とは言え、仙台城の逃走経路について当主自身 あまり知らない様子が伺えます。果たして、抜け穴の信憑性はどの程度のものだったのでしょうか。城の背後である御裏林など大深沢や本沢一帯、堀切を三段構えに設けるなど人馬を寄せ付けない険しい地形が続くいっぽうで広大な丘陵(本丸二の丸 東丸の5~6倍の面積はある )を抱えています。
(2021/09/05 16:07:22:三浦屋)

仙台城を造営した当初、二の丸政庁はまだ存在しておらず西屋敷がありましたが、この南方向の原生林内(御裏林)にかつて最上古道が通り寂光寺という寺があったと言われています。今でもその付近に蒙古の碑が建っていて廃寺の名残りをとどめています。『蒙古の碑』は元寇の戦没者の霊を弔った慰霊碑であると云われており鎌倉時代に元げん出身の僧侶が建てたのだそうです。二の丸奥の山が一部崩れて見つかった穴入口に磨崖仏があったとすれば、寂光寺関連の修行洞窟であった可能性もあります。
(2021/09/05 10:46:44:三浦屋)

明治以降、仙台城跡地には東北鎮台や第2師団が置かれさらに工兵隊の配置もありました。青葉山一帯は演習のため戦車道が縦横に造られ、さらに坑道戦訓練用として壕を掘ることもあったようです。昭和30年代に入ると占領軍引揚げのため青葉山の原生林は開放されました。その後ゴルフ場建設や東北大学工学部、宮城教育大学の進出 、亜炭鉱採掘などがあり、城背後のため藩政時代は山守によって管理されていた静かな山は時代の変化と共に変貌を遂げざるを得ませんでした。
(2021/08/29 14:59:18:三浦屋)

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