三田地さんの掲示板

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2000年前に中央アジアでビッグバンした漢王朝(匈奴.フン族)でしたが、一方で闘いに負け居住地を転々とし追われた民族は日本列島に住み始めました。漢人グループも例外ではありませんでした。
(2022/01/16 20:01:25:三浦屋)

ウデヘ族は要は北方ツングース系であり森林の民といえます。狩猟、漁労を主体としシャーマン精霊信仰を持ち故郷は興安嶺山脈のふもとです。エベンキ族やオロチョン(オロチ、小呂町、漆原、漆山、大蛇ほか)族も同系です。他にはナーナイ族(北海道七飯、奈井江、内、七北田、七尾、七里、七条、志知など)、エベンキ 族(茨城県、大阪府茨木)、シボ族(斯波、千葉、秋保、芝、千穂、塩、柴、神保など)、ホジェン族(北条、豊田、北、方など)、オウンク族(奥、岡、男鹿、牡鹿、宇賀神など)等々少数民族の足跡が全国に残っています。これらは、早くから漢字を使う集団が日本列島 に移住していた証拠となります。
(2022/01/16 17:48:35:三浦屋)

後漢や三国、三韓などの栄枯盛衰は長い間に大量難民を発生させ新開地を求めて日本列島に押し寄せました。勝者敗者の区別なく様々な少数民族もその中にいました。現在の台湾でさえ10種族の少数民族が確認されております。出羽は平安期までイデハと呼ばれたと前述しましたがウデヘ(族)がなまったものだと解釈する人もいます。
(2022/01/10 20:41:13:三浦屋)

山形県の海沿いに広がる庄内平野の歴史.....蜂子皇子がこの地に落ち延びて来たことや出羽国衙を羽黒山近くに置いたことなど、現在の藤島町を含めたこの一帯は昔から人や物が集積する地域だったようです。
(2022/01/10 19:24:32:三浦屋)

従前から、日本の歴史文化は大陸や半島から流入してきたとの考えが主流であり、学校の教科書等も大体がそうなっていると思います。しかし、昨今続々と発見される新遺跡やDNA研究の進歩、ゲノム解析などにより日本から半島に人や物が流れていた痕跡も多数あることが分かってきました。渡来系、帰化人たちのルーツも実に広範囲で朝鮮、中国他シベリア、中東など西ユーラシア全体を含みます。その人たちが我々日本人の祖先となっております。大仕事を終えて皆帰国したわけではないようです。
(2022/01/01 11:36:52:三浦屋)

唐突ではありますが、日本の隣りの古代中国では殷王朝の建国以来、周*秦*前漢*後漢など勢力の移り変わりがありました。この後漢が滅亡した頃から日本列島も大なる影響を受け始め、亡命者や移住者たちが急速に増え始めました。個々或いは集団的に間断なく実に多数の人たちが朝鮮半島や大陸経由で列島になだれ込んで来ました。日本では、弥生時代の後期にあたります。
(2021/12/26 08:31:50:名無し)

708年和銅元年に、越後国に出羽郡が建てられました。その後、出羽郡は712年に出羽国に昇格しております。国域は現在の山形県と秋田県になります。秋田城に移設する前の出羽柵の位置は、羽黒山と赤川河口の中間地域に造営されたと云われています。既に酒田地方で発掘され野外復元されている城輪きのわ柵が出羽柵であると主張される研究者もいるようですが、今一つ判然としておりません。尚、出羽の地名は平安時代まではイデハと呼ばれていました。
(2021/12/19 17:05:26:三浦屋)

蘇我馬子は蝦夷の父であり、当時、仏教を強く推進し高句麗との外交にも熱心だった人です。想像すれば馬子は高句麗出身だったのかも知れません。物部氏をも追いやり用名帝、崇峻帝、推古帝いずれも蘇我系天皇であり天下は蘇我氏一色であった感があります。それにしても、蜂子皇子が落ち延びた先の羽黒山には何の勢力が存在したのか?皇子の安全を確保せんと、聖徳太子が頼み込むような一大勢力とは或いは都落ちした物部氏だったのでしょうか。
(2021/12/11 10:28:45:三浦屋)

さかのぼること592年11月に、崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺されるという政変がありました。このとき天皇の第三皇子であった蜂子皇子は、いとこの聖徳太子の援助で海路山形方面に落ち延びました。現在の鶴岡市由良(世界一のクラゲ水族館がある所です)に上陸して、その後羽黒山を開山し修験者になったとのことです。今も蜂子皇子の墓は羽黒山に存在して正式に宮内庁で管理されています。宮内庁管理の皇族墓所は東北では此処だけとなっております。
(2021/12/05 20:24:54:三浦屋)

羽黒山衆徒は最盛期には3000坊以上有ったといわれ、南北朝期、羽黒山伏の大半は南朝派でありました。天台宗山寺もそうでした。そもそも羽黒山の開山は蜂子はちこ皇子です。
(2021/12/05 19:59:28:三浦屋)

北畠顕信が奉じた南朝の宇津峰宮(後醍醐帝の孫)、守永親王の消息は藤島城落居とともに途絶えていますが、顕信は温海や秋田由利郡付近に潜伏していたとの伝えもあります。立矢沢 城は羽黒山富田坊衆徒が固守していた城でしたが、羽黒山衆徒はなぜこれほどまでに南朝に協力したのでしょうか。
(2021/11/28 19:29:55:三浦屋)

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