三田地さんの掲示板
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アラハバキの故事来歴については前にも述べたので割愛しますが、関東や関西、九州にもアラハバキ神社は存在します。これはアラハバキ神が元からその地方に祀られていたと解され日本人の源流、祖霊神に関わるレベルかと思います。一説には縄文人の祀った神とも云われています。東北の寒冷地化から縄文人グループが南下していった痕跡も所々に見受けられる(青森の三内丸山消滅など)ので可能性としてはゼロでは無いと考えられます。多賀城のアラハバキ小社が西を向いている意味は大陸の母(オボ)なる川であるアムール川信仰の影響だろうかなどと想像したりします。すなわち縄文人の祖先は遥か蒙古、バイカル湖周辺で暮らしていたとする説と合致します。 神社や祠はほとんどが南向き、東向きに建っているものですが、このアラハバキ小社は城外の西向きにひっそりと建っています。強いて言えば多賀城東門か政庁の方を向いています。720年頃に郡山官衙から国府を多賀城に引っ越したのは初期の目的を予定通り達成させた為と察せられ、大地震や津波で被災した痕跡は官衙跡にはありません。多賀城の立地は海岸に近い高台であり資源物資の集積輸送が増えてきた事への対策や三陸方面への展開(海道の蝦夷の存在あり)を考えたのかも知れません。初めに郡山に官衙を置いたのは陸奥国建国と併せて出羽国建国の目標設定があったのだと考えられます。陸奥大道から笹谷峠への分岐点が古代から郡山付近にあったと想像されます。 実は、多賀城東門近くにアラハバキ神の祠があります。アラハバキ神の由緒は謎であり、縄文の神、旅の神ともいわれ或いは匠みの神とも云われています。多賀城造営前から在ったのか造営後に祀られたのは定かでありません。この近辺に母子沢や伊保石などオボ関連地名が残っているので多賀城造営前はこの辺は先住民たちが生活していたにちがいなくアラハバキ神もその名残かも知れません。 宮城県に、奈良時代の国府遺跡である多賀城跡がありますが、この正門であった南門の野外復元工事が現在進められています。奈良の平城宮朱雀門のスケールではありませんが、本瓦葺きで入母屋造り二重門、朱色や漆喰に彩られた多賀城南門はより堂々と観えます。700年代初頭にこの南門が造営された時もこれ以上のインパクトがあったと考えられます。また、造営初期は東門が正門として機能していました。しかし、在地の蝦夷にとってはこの律令国家の城は目障りでした。しばらく経ってから、城の正面である東門が蝦夷勢力に攻撃され焼き討ちに遭いました。 蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳が造られた頃、600年代の仙台平野では奥大道沿いの南小泉に拠点集落があったとされ、ここを政治的に抑えたのが推古天皇です。以前にも述べましたが、郡山官衙造営以前に関東などから仙台平野には波状的に大量の移民、移住者があって開拓を進めていました。そのような下地があって郡山官衙は造営された訳です。600年代中頃に官衙造営してから50〜70年ここで施政(現地勢力の粛清、宣撫や出羽国建国を含む)を実行しました。その後700年代初頭に官衙の機能を北方の多賀城に暫時移していきました。 前項のオンドルとは、わかりやすく説明すると古代朝鮮半島の住宅の床暖房の事です。カマドを焚いたときに出る煙りの熱を利用した床暖です。形を変えたオンドルは現代にひきつがれています。 穴太古墳群遺跡には、オンドル遺構(500年〜600年代)他高句麗、百済風の野面積み石垣が見られます。飛鳥の石舞台古墳は蘇我馬子の墓(600年前後)といわれていますが、この頃には巨石を組み上げて石室を造る渡来系技術者集団が列島に居たのであり石工集団も穴太以外に居たと考えられます。 最澄は諡号しごう(死後に貴人を奉る送り名)を伝教大師といいます。貞観8年(866)に清和天皇より賜りました。天台の仏教思想は能や茶道に深く入り込んでいると云われます。また、天台宗の寺院でしたがいつしか廃寺となり今は畑地となって地蔵や小さい観音堂がひっそりと建っている箇所が仙台市内にも見られます。あるいは、他宗派となって再興され引き継がれている寺もあります。 一乗止観院は延暦寺発祥の地であり今で言う根本中堂です。また、止観業という言葉があり天台教学を学ぶ者を指すのだそうです。若き日の日蓮や法然、道元、親鸞、栄西など各宗派の開祖たちが比叡山に学んでいたことは驚きてす。 古代氏族である三津首みつのおびと氏の祖先は、後漢孝献帝の血筋である登真記とまき王とされています。日本の300年代第15代応神帝の頃に渡来したと云われています。応神帝は日本書紀では誉田ほむだ天皇の表記となっています。 穴太石工集団は、最澄と同じ渡来氏族の縁から延暦寺造営に協力することになり石垣構築、井戸、土木造成工事などを請け負いました。そもそも最澄は近江の豪族三津首みのおびと氏であり767年に出生し14才で得度して最澄を名乗り788年、21才のとき一乗止観院という草庵を建ててそこに薬師如来を祀りました。その後、37才のときに空海と共に遣唐使として渡海しています。805年になって帰国し大乗戎檀の設置を悲願とすることになりました。 |
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