三田地さんの掲示板

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明治以降、仙台城は時代の変遷と共に変化を遂げてわずかな遺構しか残していませんが、大手門と隅櫓は第2師団の正門として残されていました。昭和20年の仙台空襲で米軍に破壊されるまで国宝として現存していました。ただし、天下の名城も明治以降は無用の長物となっていた為ほとんどが解体、破却され古材として再利用されたものもあり、仙台市内数ヶ所に残材使用の建物が残っております。他地方にも、城門解体後にお寺の山門の柱として再利用した話しはよく伝わっています。
(2021/04/18 15:44:11:三浦屋)

明治15年9月7日に、本丸下の追回し練兵場(旧追回し住宅)にて西南戦争戦没者の慰霊祭を昼間に挙行しました。弔いの打ち上げ花火 が不発のまま風に流されて二の丸殿舎群の屋根に落ちて爆発炎上、またたくまに燃え広がり二の丸のほとんどが灰燼に帰してしまいました。残った建物は大手門、隅櫓、能舞台、勘定所それに二の丸西南側の本蔵、紙蔵 離れた所で寅の門 だけとなってしまいました。
(2021/04/17 19:35:01:三浦屋)

本丸殿舎は秀吉の京都聚楽第を模した慶長期のものであり、政宗が刑部国次を棟梁に命じて造営させた豪華絢爛たる安土桃山様式の外観でした。その姿は松島の瑞巌寺本堂に面影を残していますが、明治政府の廃藩置県施行により明治4年頃取り壊されました。政宗ゆかりの本丸殿舎でもあり藩政時代は儀式の時にのみ使われていたそうです。二の丸には東北鎮台(後の第二師団司令部)が置かれ取り敢えずは殿舎をそのまま使用していたようです。
(2021/04/11 14:49:20:三浦屋)

仙台城の場合、度々の地震や水害で 修理や撤去を繰り返してきました。前述のとおり西曲輪を二の丸に改造した以外平面的な改良はほとんどされないまま明治元年を迎えております。仙台藩は、戊辰戦役にて官軍に抗した故をもって28万石に減封されましたが、城は依然として仙台城のままでした。
(2021/04/04 15:41:17:三浦屋)

江戸幕府の法基準はいわゆる武家諸法度でした。諸城の石垣の新築修理 については幕府に届け出て許可を得るべきことが決まっていました。意外にも上物である櫓や門、塀の修繕については届け出の義務はなかったので実際にはもっと大きな被害を受けていたようです。政宗が亡くなった2年後に西曲輪にあった三河守宗泰の屋敷を上地して二の丸地鎮祭を行っています。
(2021/03/21 10:51:38:三浦屋)

その後、幕府から修理許可が出ていますが不思議なことに櫓や塀が元通り復旧されておりません。寛文4年製作の城絵図には、本丸の三階櫓三基が無くなり只の櫓場となり城壁は木柵に変わっています。そんな中でくぐり門、屋根付門などの仕様変更、兵具蔵の新設が行われています。度々の損壊で必ず復旧したのは本丸東側の御懸造り(京都清水寺のステージを模した物見櫓、崖上に張り出している構造)です。戦術上欠かせなかったものと想像されます。
(2021/03/14 13:45:07:三浦屋)

今に残る仙台城絵図として、最も古いものは正保2年(1645)に描かれた屏風があり城として最も完備された姿を伝えています。奇しくも翌年の大地震で石垣、櫓、塀、門が大きく損壊しており幕府に復興許可を申請して います。
(2021/03/14 12:16:17: 三浦屋)

正保年間の大地震のあとは寛文8年(1668)7月21日に発生しておりますが、これも甚大な被害を城は受けています。寛文以降、200年間地震災害の藩記録は残っておりませんが、天保6年 (1835)6月25日 にやはり大地震があり本丸城壁が崩れています。現在の仙台城石垣は、平成の大修理にて積み直され ていますが特に本丸西方向、酉の門(水の手櫓付近)一帯に江戸期の積み直しと思われる箇所がそれまでは残っていました。さて、仙台城の地震記録は続きます。天保年間の大地震のあと約26年後の文久元年(1861)9月18日にも発生しています。このときの被害記録は特に残っておりません。伊達治家記録は仙台藩政期のものなので1868年 明治元年以降の記録は存在しておりません。
(2021/03/07 09:50:06:三浦屋)

政宗は寛永13年(1636)に死去しています。仙台城は寛永末年頃(1640年前後)に最も完備していましたが、正保3年(1646)4月 26日の大地震 でまたまた大きく破壊されました。このときは城壁、櫓が悉く破損倒壊したと特に強い表現で記録されています。各時代の城の被害状況をみると本丸直下の震源もあったのではないかという研究家もいます。
(2021/02/28 11:17:12:三浦屋)

仙台城造営は幕府の許可を得て、慶長6年(1601)に造営を開始しました。2年後の略式完成後政宗は入城していますが、造営は続き慶長15年(1610)にようやく城全体が完成します。が、皮肉にも翌年の10月28日に 慶長大地震が起き城壁、櫓などが破損しています。これが城造営後初の地震災害記録です。多分、根本史料『伊達治家記録』によるものと思われます。そして5年後の元和2年(1616)7月28日に地震が発生し再び櫓や城壁が崩れております。
(2021/02/21 21:53:27:三浦屋)

初代政宗在世のとき仙台地方にも、東日本クラスの大津波と大地震がありました。今に残る貞山運河の開削や建設などは津波の跡地(大規模な水溜まり、湖沼化した荒れ地)を再利用したのではないかと推測されています。また、仙台名取付近の奥州街道(旧国道4号線)は藩政時代、津波被災後にルートを変更したか新規に取付けたかしてその形跡が残されております。東日本震災時の大津波は旧国道4号線のラインには全く到達しておらず 難を逃れた格好となっています。さらに政宗時代の仙台城がどれ程の規模の石垣、櫓、塀、建屋 であったのか詳細は明らかでありませんが、平成の大修理にて部分的に発掘されたものから新たに解明されたことがあります。
(2021/02/21 09:48:52:三浦屋)

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