三田地さんの掲示板

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話しは前後しますが、南北朝時代に北畠顕家が鎮守府将軍に任ぜられ多賀城に下向しました。その後顕家は奥州内の侍たちの国替えを行いました。このとき三浦介平高継は八戸に国替えを命じられましたが、その命令に従わず行方をくらませて何処かに落ち延びています。岩泉町袰綿の旧家、屋号久保畑くぼはた三浦家ではこの三浦介が先祖であると伝わっております。家紋は横三引両です。宮古の初代代官小本氏も本苗三浦(平氏)であり家紋は横二引両です。なにか関係があるのかも知れません。
(2022/07/02 19:48:30:三浦屋)

さて、奥州の主な戦国大名の祖先は何処から来た人たちだったのでしょうか。始めに、南部氏四天王の一家三上氏(本姓佐々木)の先祖は出雲の人でした。南部氏は甲州出身。伊達氏は元々常陸国、葛西氏は房州、和賀氏と稗貫氏は武蔵国、津軽氏は名門平泉藤原氏が先祖であると自称していましたが、実は身内の南部氏(久慈氏)の分かれのようです。地元の豪族というのはほとんど居るわけはなく、全国的にそれが普通であるとも言えます。奥州の場合は平泉藤原氏の没落がインパクト事象であり、これを境に大々的に血族の入替えがありました。鎌倉幕府の初代征夷大将軍 源頼朝の命により論功行賞を含めた御家人の所領配置です。この命に従わない者は失脚となりました。
(2022/06/26 13:27:30:三浦屋)

南部氏、伊達氏、信夫氏など南北朝時代は南朝の忠臣として東奔西走する姿があの太平記にも出てきます。南朝は奥州の戦力をも取り込もうと北畠顕家を多賀城に配して勢力の巻き返しを図りました。対北朝との戦跡も方々に残っております。しかしながら、総じて北朝方の城跡は南朝方のものより規模が大きく造られています。権謀術数の結果あるいは組織力の違いでしょうか。三上氏についても異本系図にはその出自から始まり南部氏家臣として活躍が記載されていますが、太平記から引用した内容が多く描かれていると云われています。三上館跡の規模から察するとその造営も策謀的だった可能性が否定できません。和賀氏家臣の居城であった相去城も工事途中で造営を中止している形跡がそのまま残っております。
(2022/06/25 22:15:45:三浦屋)

地名普代ふだい、フダイに関して「古今要覧稿」永正5年(1508)の項に地名ウタイがみられる事が最近わかっています。歴史的に南部氏が閉伊郡に進出してきたのは戦国期の1500年代後半ですから、それ以前から在った地名ということになるでしょう。アイヌ語では泥地をウダ、低湿地をウタと云います。岩手宮城には腹帯はらたいの地名が時々見られますが、腹帯はフ(く)タイ とも読めるので同じ意味を持つのかも知れません。
(2022/06/19 10:52:21:三浦屋)

長い年月のあいだには天変地異により山城跡や館跡の構造は変わるパターンがあります。一方で数百年以上よく形状を残している遺跡も数多くあります。たとえば、仙台市の秋保町に「野尻小屋館跡」という館跡があります。標高500mに満たない山上にある小規模な館跡です。市教委が調査しており、戦の時に非戦闘員(老人、女、子供など)が避難する場所だそうです。山頂の東南側に連続した段を設けており建物跡はないようです。東西70m南北50m程度に広がる曲輪の一種と云えるでしょうか。普代の三上館は城跡と云うよりも、むしろ小屋館跡の形式に似ている感じを受けます。本来、何のために造られた館跡だったのでしょうか?
(2022/06/18 22:55:14:三浦屋)

北上山系の中の岩手県は一体に難解地名が多いような気がします。県北沿岸部の普代ふだい もその一つです。南部氏四天王の一家であり譜代格三上氏(本名佐々木氏)の館が在ったので地名が普代と云うことになっています。その三上氏の館跡ですら伝承的であり永らく その場所を特定できませんでしたが、昭和40年代になって近くの漁村太田名部の山上にそれらしい跡が発見されました。しかしながら、遺跡としては貧弱であり譜代格の館跡というには程遠い残存状態だったようです。山の上なので地形も変わり崩壊部分が多かったのかも知れません。
(2022/06/12 16:34:45:三浦屋)

縄文人最後のドンと云われるアテルイ(阿弖流為)は、その名のもつ響きからして、アルタイ族出身の人であろうと思わせるのに十分な貫禄を感じます。また、アテルイの面と称するものが茨城県の鹿島神宮に奉納保存されている事も不思議です。その憤怒の形相とも言える面はたしかに日本人離れした風貌です。鹿島神宮は、律令政府が推進してきた典型的な国体護持の神社です。
(2022/06/05 21:22:30:三浦屋)

東北山形県に左沢あてらざわの地名があります。ここでは左沢の語源を山言葉またはアイヌ語に求めています。例えば、御所内の殿舎に植えられた左京の桜、右京の橘、律令政府では右大臣より左大臣(現在の総理大臣に相当する)が格上となっております。古代から東が重要視されたことは、郡山官衙の大手口(正面玄関)が東側だったこと、多賀城の正面は造営当初は東門だったことと合致いたします。
(2022/06/05 07:44:38:三浦屋)

話題は移りますが、古くから交通安全や旅を続ける神として猿田彦神が存在しますが、方位の申さる、または道祖神と混同されたりもします。億ウソ流では猿田は、サあるたい(あるてい)と訳され動物の猿と特に関係はありません。猿田のサは左を表し東の方角を指します。高句麗語では朝や新天地の意味を持ち「あてら」と読ませます。
(2022/06/04 22:20:13:三浦屋)

オボ地名の伊保石や母子沢を以前あげましたが、仙台城下染師町東裏(現若林区)に小保町の名称がありました。由来は明らかでありませんが、藩政時代寛永年間まで遊郭の在った所です。染師町は染物業の職人を集めた町です。
(2022/05/29 10:33:25:三浦屋)

阿弖流為の副官的存在の母礼もれについては、母体(袋)もたいの誤字ではないかとする説がありますが、母体の地名は岩手に多くあるからでしょう。関係の有無は不明ですがモレに似た響きの地名なら北海道にモエレ公園があります。モエレはアイヌ語で『流れのおそい川』という意味だそうです。北海道には旧河川、沼、湖、湿地帯など手付かず、昔の自然地形が数多く残っています。阿弖流為や田村麻呂の生きた時代は奈良時代の800年代ですが、もっと前の時代の倭奴国の頃の痕跡が全国に散らばって残っております。
(2022/05/22 15:29:30:三浦屋)

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