全国分布検索 > 増山姓都道府県世帯数
増山姓の人口
※あくまで参考値であり保証するものではありません。
全国の推定人口
データ無し
推定人口の順位
不明
「増山」さんはたまに見る苗字です。とはいえ必ず出会えるという頻度ではないかもしれませんが、有名人がいるとそれほど珍しいとは感じないかもしれません。
※本サイトではプライバシー保護のため人口が少ない場合は[0~10前後]、[ほとんどいない]等と表現し、端数についてはも四捨五入させているため[全国の推定人口]と各都道府県の[人口]の合計は一致しません。
増山姓 ランキング上位
- 栃木県(約2,700人)
- 東京都(約2,600人)
- 神奈川県(約1,600人)
- 茨城県(約1,300人)
- 埼玉県(約1,300人)
増山姓 県内比率ランキング上位
- 栃木県(約0人)
- 富山県(約0人)
- 長崎県(約0人)
- 茨城県(約0人)
- 鹿児島県(約0人)
増山姓都道府県分布一覧
都道府県 | 人口 | 県内比率 |
---|---|---|
約570 | 0.01% | |
約80 | 0.01% | |
0~10前後 | 0.00% | |
0~10前後 | 0.00% | |
0~10前後 | 0.00% | |
0~10前後 | 0.00% | |
約100 | 0.01% | |
約1300 | 0.04% | |
約2700 | 0.13% | |
約280 | 0.01% | |
約1300 | 0.02% | |
約670 | 0.01% |
都道府県 | 人口 | 県内比率 |
---|---|---|
約2600 | 0.02% | |
約1600 | 0.02% | |
約60 | 0.00% | |
約780 | 0.07% | |
約200 | 0.02% | |
約80 | 0.01% | |
約30 | 0.00% | |
約150 | 0.01% | |
約60 | 0.00% | |
約590 | 0.02% | |
約510 | 0.01% | |
約80 | 0.00% |
都道府県 | 人口 | 県内比率 |
---|---|---|
約180 | 0.01% | |
約200 | 0.01% | |
約620 | 0.01% | |
約320 | 0.01% | |
約70 | 0.01% | |
約30 | 0.00% | |
0~10前後 | 0.00% | |
0~10前後 | 0.00% | |
約20 | 0.00% | |
約90 | 0.00% | |
約200 | 0.01% | |
0~10前後 | 0.00% |
都道府県 | 人口 | 県内比率 |
---|---|---|
約30 | 0.00% | |
0~10前後 | 0.00% | |
0~10前後 | 0.00% | |
約270 | 0.01% | |
約40 | 0.00% | |
約760 | 0.05% | |
約40 | 0.00% | |
約60 | 0.01% | |
約40 | 0.00% | |
約340 | 0.02% | |
0~10前後 | 0.00% |
増山姓の地域分布
増山姓の都道府県分布
増山さんは全国で1092番目に多い名字のようです。やく1万人に1人くらいいます。栃木県や東京都や神奈川県や茨城県や埼玉県や富山県には他よりもいらっしゃるようです。また県内の人口比率だと栃木県や富山県や長崎県や茨城県や鹿児島県や東京都には他よりもいらっしゃるようです。地域としては関東地方に多い名前のようです。もしかすると増山という苗字の有名になった方がいらっしゃったのかもしれませんね。そして栃木県や長崎県や千葉県に移り住まわれた方が多いようです。その後全国に広がっていったと思われます。
増山さんの由来
- 先の前述しました増山氏、もしくは増山家の呼称、読み方の件ですが、マスヤマ、又はマシヤマとに分かれますが、四代将軍・徳川家綱(嚴有院)公の父君の三代将軍の家光(大猷院)公が、竹千代(家綱公の幼名)君をご出産されたご生母君(ご母堂様)のお楽の方(初名:お蘭)の父君の青木利長・公が、お楽の方の幼少期に生活苦から当時漢方薬としても高価なご禁制の鶴を狩猟した罪により死罪になった過去から母方(紫・泉光院)のご実家の姓である増山氏(秀郷流小山氏の流れをくむ徳川家譜代の家臣)を冒す様に大猷院・家光公による台命により改められ、更には天下の将軍家の外戚となる上で他の分家の増山家とを区別する為に「増して栄えある増山家」として格上げする為に増山(ましやま)として呼称を改めたそうです。因みに増山の由来は、前述通り甲斐国志の中の記述にある様に東八代郡小石和筋の山(現在の山梨県笛吹市にある黒駒山系の一つの神座山。別名、増山。神:美和大神おわしマスヤマ。)に於いて家を起こしたことに由来する。元々、南北朝時代の始まりの建武二年(1335)七月二十日頃に起きた中先代の乱の戰に於いて討死された小山高朝(秀朝)公の遺児(庶子)である増山家初代の宗久公が落ち延びた場所が、宗久公のご生母の生国であり、ご生家の甲斐武田氏の領国内の甲斐国小石和筋の神座山で暫時後程、その別称から増山(ますやま)と名乗ることにして屋敷の増山屋形が現在の石和八幡宮の辺りにあったという。因みにお楽の方のご生母の紫様の生家の増山家の当時のご当主は、増山織部正久・公なり。そして姉君のお楽の方の寛永期のその大栄達により破格の大出世した、その弟君の正利・公は、旗本一千石に始まり相模国一万石を経て三河国西尾二万石にご加増されて、その後にも三代・正弥公の常陸国下館への国替えを経て幕末まで伊勢長島藩二万石譜代大名として続かれ、明治期には子爵を授爵されたという。
- 前述の増山姓の由来の件の続きですが、中世から現在に至るまで数多の増山家が存在しますが、端的に言えば、明治期に布告された二度にわたる名字令により物理的に同姓が増えただけの話で血縁関係がある訳では無いという事なんです。元々、江戸時代まで士農工商という、身分制度が歴然と存在し、名字を公的に名乗れるのは、公家や武家などの一部の階級に限られてそれが少なくとも徳川幕府約260年間にわたり厳格に守られてきたことから明治二年に最初に太政官布告された「皆民名字令」では、それまでの厳罰を恐れて中々浸透せず、次の明治八年に布告された「改正名字令」には名字を名乗ることを義務化して罰則規定を盛り込んでから庶民に至るまで大正期を経て徐々に全国民にわたり浸透していったそうです。元々、これは時の幕末期の政権により欧米列強諸国と交わした不平等条約、又その不利な状況を改める為に明治新政府が進めた富国強兵、さらには民主主義の制度上、税金をあまねく庶民からも徴収する為に全国民へ平等に名字を名乗らせて税金の徴収を円滑に行える様にして税収率を上げて
- 前述の続きですが、明治八年の二度目の太政官布告の改正名字令では、名字を名乗る様に義務化して罰則規定を盛り込むと大正期までには徐々に浸透していったそうです。それは、元々とりも直さず富国強兵による国威発揚の為と幕末期に交わされた欧米列強諸国との不平等条約を改正する為に民主的に遍く全国民への円滑な税金の徴収が急務となり身分に関係無く全国民に平等に好きな名字をなんでもいいから名乗る様にしたからです。それが、とりも直さず幕末期に於ける欧米諸国による差別的な条約改正を完遂することにつながり、それはとりも直さず我国が欧米諸国から民主化した制度を確立した文明国として認められる第一歩だからでした。
- 増山と書いて「ましやま」と読みます。 本家は山口県の萩市、山口県や広島に親族がいます。親族以外の「ましやま」さんにお会いしたことがありません。
- 増山(ますやま)です。江戸時代高田藩(新潟県)の武士だった事は分かっています。廃藩置県で一族で東京へ出て来たそうです。分かっているのはこれだけです。
- 所謂、武家の増山氏の場合は、「甲斐国志」やその他の関連書物等によれば、本貫地である甲斐国の小石和筋上黒駒にある霊峰の神座山が、室町時代初期の別称において「 神御坐す山( かみおわしマスヤマ 」という意味に由来してこれを増山氏の初代が、それに付け加えて出自とする以前の藤原秀郷流の本家筋の小山氏(下野守)からの分家として独立し、更に霊峰の如く山の様に増して栄える武家という意味として「 増山 」という姓に改めたそうです。これは、美和神社が神座山( じんざさん )麓( 山梨県笛吹市御坂町二ノ宮)にもありますが、全国的に数多ある美和神社の総本宮である、奈良県桜井市の大神( おおみわ )神社に関する図書を色々と読みふけった中で当神社が、大いなる御祭神が御坐す神社という意味で元々、出雲の国造家の千家( せんげ )氏や信濃の諏訪大社の大宮司家の諏訪氏と並び、御三家の一つでもある、共通した遠祖を大国主命とする三輪氏の氏神である大三輪神社だったのが、古代に於いて格上げする為に当字を三輪から神( みわ )に改めたことに影響触発されたものとも思われます。無論、諸説ありますが、これが最も有力な説かと思われます。以上。
【名字由来教えてください】
増山姓の由来やルーツ、一族の伝承や秘話等についてご存知の方がいらっしゃいましたら教えていただけると助かります。よろしくお願いいたします。
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