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初代秀実が1522年の明の皇帝の慶賀に同行したときに時の権力者嘉靖帝に会えたかはわかりませんが、3世秀昌は、時の日本の権力者豊臣秀吉に朝見はしたのは事実のようです。近年では、分家筋の15世池宮城秀意が
(2022/02/08 20:46:00:名無し)
初代が1522年
(2022/02/08 20:36:00:名無し)
球陽は16世紀中ごろに編纂されたものなので、年代の記述についてはかなり曖昧なところがあるようです。日秀上人と同一人物説はこのようなところからきているかと思います。同時代に来琉して、また秀の字を使用していることからそのような説も生まれたかとおもいます。
(2022/02/08 20:34:00:名無し)
1522年は明(中国)に渡った年で、球陽によると正徳年間に中山に来るとあるので、1506年~1521年の間に琉球に来たようです。
(2022/02/08 20:23:00:名無し)
一世秀実と一緒に行った沢岻親方盛里は、護佐丸の孫にあたる人物で、尚真王時の三司官、1522年に中国当時の明へは世宗嘉靖帝の慶賀のため北京に赴く。竜頭石を買って帰る。
(2022/02/06 14:26:00:名無し)
球陽に記載されている内容について、標題は、向文英、力を本国に効す。本文は、毛氏家譜に、○ふ、日本人秀実、幼少の時より、・・・・(省略)とあります。1522年の事です。向文英とは、一緒に中国に行った沢岻親方盛里の唐名です。
(2022/02/02 06:21:00:名無し)
今年は、秀実が来琉して500年になります。球陽の巻3(194)P161と本家の家譜に記されています。
(2022/01/15 11:51:00:名無し)

足あと(2021/12/12 13:41:00:名無し)

牛姓の家譜の内訳は、崎濱家3冊、我謝家2冊、池宮城家1冊、宇久田家1冊となっています。
(2021/11/20 17:10:00:名無し)
沖縄戦の影響で現存する家譜は700冊くらいのようです。牛氏で残っている家譜は、本家と分家の崎浜秀休家と池宮城秀定家の家譜です。
(2021/11/14 23:53:00:名無し)
241件目~250件目を表示しています。

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