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崎浜秀三は、初めて沖縄出身の大臣を務めた伊江朝雄の秘書を務めた方です。朝雄氏の先代朝助氏ですが琉球王家に繫がる人物です。朝助氏は、崎浜秀主と仲が良かったようです。
(2021/02/11 23:09:00:名無し)
田舎下りした系統では、崎浜秀休系で崎浜秀栄(大学教授:琉大)、崎浜秀明(沖縄の法制史研究者)、崎浜秀三(県議)等、が出ています。いずれも故人者です。
(2021/02/11 23:00:00:サキハマ)
崎浜家(牛氏)の本家も那覇士族としてそれなりに生きました。ただ、次男、三男系統は士族としての職がなく田舎下りしました。でも、現代で門中で広がりを見せているのは、田舎下り(特にやんばる出身)した人々です。
(2021/02/11 22:51:00:サキハマ)
もともと蔡家は、蔡温など政治家、学者、文人を生んだ家系で、久米士族に養子(分家)入りした蔡国器も、環境を生かした結果が、子や孫のも現れたかもしれません。
(2021/02/11 20:54:00:名無し)
四世秀統の三男(蔡国器)は蔡家に養子に出た方ですが、文人、学者が多いです。蔡国器系では、子供の蔡応瑞(風水師)、孫の蔡文薄(四本堂家令:学者?)、蔡宏ぼ?(球陽編纂)蔡世昌(国師)
(2021/02/11 20:38:00:名無し)
ちなみに球陽を編纂したのは、蔡国器(秀統の三男)の曾孫(蔡宏ぼ?)です。
(2021/02/11 20:29:00:名無し)
秀実は球陽に1522年来琉ということになってる。日秀上人も1522年来琉となっていることから、同一人物説があるのかもしれません。ただ、球陽が編纂されたのが、1743年なので口伝で伝えられたのが球陽に記載されたのかもしれません。同一人物説もありそうではあります。
(2021/02/11 20:22:00:サキハマ)
初代秀実は、琉球に帰ってきて日本に帰るところを時の国王尚真に引き留められたことになっています。日本人の思戸を娶り、那覇西村に屋敷とサンモウジを墓地として拝領しています。現在墓地後には、坊主神の碑が立っています。
(2021/02/11 07:31:00:サキハマ)
ちなみに初代の秀実は護佐丸の孫(沢岻親方盛里)と中国(当時の明)に渡ったとされます。初代が沢岻姓を名乗ったのもその辺に由来があるかもしれません。
(2021/02/10 19:58:00:名無し)
なぜ朝、盛の系統が少ないのは簡単事で、この二つの系統は、上級士族で沢山の苗字に散らばっているからで、沖縄の苗字で朝が付くなら王朝の繋がりがあることが多く、盛が付くなら、豪族の護佐丸の系統が多いです。護佐丸の子孫は10万に入るといわれています。
(2021/02/10 19:45:00:名無し)
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