コラム > 藤のつく名前が多い理由
藤のつく苗字はなぜ多い?
概要
ランキング
"藤"の名前が付いた苗字のランキングを見ていきましょう。
藤のつく名前の元祖
藤のつく名字は誰もが知っている小学校でもならう飛鳥時代の政治家中臣鎌足(614年~669年)さん。その偉大な功績をたたえ死後天皇より藤原の姓をいただき藤原氏の祖となりました。ではなぜ藤原姓をいただいたかというと。
中臣鎌足さんが住んでいた地名が「藤原」という地名だったそうです。
その後藤原家は栄えに栄え、そのおよそ350年後の1018年の書物によると天皇を補佐する公卿のリストには28名中なんと23名が藤原姓という状況にまで至ります。
政治的な影響力だけでなく、当時の文化の象徴的な存在である百人一首でも、100首のうち34首は藤原氏が詠んだ歌なのです。
このようにして日本最大の氏族「藤原氏」が誕生したのでした。
藤原はどうして広まったのか
それでは藤姓の祖「藤原」はどうやってここまで広まったのでしょうか?
藤原の勢力を拡大するために中臣鎌足の息子である藤原不比等は、当時の都の中で自らの一族である藤原姓を貴重な存在にする必要があると考えました。
そこで自分の娘を天皇に嫁がせ外戚となり権力を握ります。さらに嫁がせた娘が生んだ次期天皇にも腹違いの娘を嫁がせたのです。
このように天皇家との結びつきを強固にすることで強盛を誇っていったのです。
藤のつみ苗字への変遷
平安の時代藤原氏はどんどん栄えていったためなかなか出世できない藤原氏も多く居ました。
平安の都で出世できなくなった藤原氏は、さらなる繁栄を求め地方豪族への道を模索し始めます。
このようにして次々に地方官僚となった藤原氏は、他の藤原氏と差別化を図るために、自らが治める地名を名乗るようになっていきます。
以下がその代表格です。
こうした地方の名前をつける差別化とは別に、都にいたことを強調するために、職業を藤原と合わせて名乗る藤原氏も出てきました。
例えば天皇の身近に使える秘書である、内舎人(うどねり)であった藤原氏は、
内藤と名乗ることで地方官僚となてっても、元をたどれば中央の都にいる藤原氏の一族であることを強調するためでもありました。
また同じく建造物など木工関連の業務を束ねる仕事である木工助(もくのすけ)とういう役職の人は工藤と名乗り、
天皇の馬を管理する主馬首(しゅめのかみ)であった藤原氏は首藤、
天皇の護衛を担当していた武者所(むしゃどころ)であった藤原氏は武藤と名乗った。
武藤などは権力と文化の象徴でもあった藤原氏に、武家の強さが加わることで文武両道といったイメージを植え付ける効果もあったのかもしれません。
他にも
宮中の建造物を修理する役職の修理進(すりしん)であった藤原氏は進藤、
当時の武士にとってはあこがれの的でもあった宮殿を護衛する総責任者である左衛門尉(さえもんのじょう)であった藤原氏は佐藤、
天皇の代わりに国の平和と五穀豊穣を祈る皇女・斎王に仕える斎宮頭(さいくううのかみ)であった藤原氏は斎藤と名乗ったようです。
藤を「トウ」と呼んだ理由
平安時代初期遣唐使などにより中国の文化が流入し、流行しました。その際に姓を中国風に一字で音読みするのが流行したため、
「藤」を訓読みの「ふじ」ではなく音読みの「トウ」とにすることがカッコよいと思われる風潮がありました。
これにより藤をトウと読むようになったといわれています。
藤原氏と関係ない藤がつく姓
当然「藤」のつくすべての名字が藤原由来ではなく、地名や地形に由来すると考えられている藤のつく姓もまた存在します。
このような苗字は「藤」という高貴な名前に憧れ、地名や地形に関連付けてつけられてたのではないかという説もありますが、藤原とは特に直接関係がないようです。
なぜ「原」ではなく「藤」の字を残した?
「藤」の字は古来より高貴さの象徴でした。また農耕期期の始めに咲く花であるため、実りの季節を予感させる華でもあった。
さらに藤の木の生命力と「不死」という読み方に近いことから、生命の力強さを示す者でもあった。
こうした文字の由来から「藤」という高貴さの象徴である文字を引き継いでいったと思われます。
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