全国分布検索 > 松浦姓都道府県世帯数
松浦姓の人口
※あくまで参考値であり保証するものではありません。
全国の推定人口
データ無し
推定人口の順位
不明
友人にとはいかないまでも周囲にだれか一人はいるくらい多い苗字といえます。クラスに何人かいていつも下の名前で呼ばれるなんてことも。漢字も読みも同姓同名!?なんて人に会ったことがある人もいるのではないでしょうか。
※本サイトではプライバシー保護のため人口が少ない場合は[0~10前後]、[ほとんどいない]等と表現し、端数についてはも四捨五入させているため[全国の推定人口]と各都道府県の[人口]の合計は一致しません。
松浦姓 ランキング上位
- 大阪府(約12,000人)
- 静岡県(約11,000人)
- 東京都(約9,700人)
- 愛知県(約9,600人)
- 神奈川県(約7,000人)
松浦姓 県内比率ランキング上位
- 島根県(約0人)
- 静岡県(約0人)
- 徳島県(約0人)
- 宮崎県(約0人)
- 愛媛県(約0人)
松浦姓都道府県分布一覧
都道府県 | 人口 | 県内比率 |
---|---|---|
約6700 | 0.12% | |
約570 | 0.04% | |
約750 | 0.06% | |
約3100 | 0.13% | |
約390 | 0.04% | |
約1800 | 0.16% | |
約2200 | 0.11% | |
約1900 | 0.07% | |
約750 | 0.04% | |
約1000 | 0.05% | |
約3800 | 0.05% | |
約3800 | 0.06% |
都道府県 | 人口 | 県内比率 |
---|---|---|
約9700 | 0.07% | |
約7000 | 0.08% | |
約930 | 0.04% | |
約970 | 0.09% | |
約970 | 0.08% | |
約1400 | 0.18% | |
約390 | 0.05% | |
約410 | 0.02% | |
約2000 | 0.10% | |
約11000 | 0.30% | |
約9600 | 0.13% | |
約1200 | 0.07% |
都道府県 | 人口 | 県内比率 |
---|---|---|
約1300 | 0.09% | |
約2000 | 0.08% | |
約12000 | 0.14% | |
約6600 | 0.12% | |
約1700 | 0.12% | |
約1100 | 0.11% | |
約750 | 0.13% | |
約3000 | 0.43% | |
約2800 | 0.15% | |
約6800 | 0.24% | |
約2000 | 0.14% | |
約2200 | 0.29% |
都道府県 | 人口 | 県内比率 |
---|---|---|
約2000 | 0.20% | |
約3600 | 0.26% | |
約1000 | 0.14% | |
約3200 | 0.06% | |
約430 | 0.05% | |
約1300 | 0.09% | |
約1300 | 0.07% | |
約490 | 0.04% | |
約3100 | 0.28% | |
約490 | 0.03% | |
約110 | 0.01% |
松浦姓の地域分布
松浦姓の都道府県分布
松浦という名字は全国で157番目に多いようです。だいたい千人に1人ほどいると思われます。大阪府や静岡県や東京都や愛知県や神奈川県や広島県にいらっしゃるようです。また県内の人口比率だと島根県や静岡県や徳島県や宮崎県や愛媛県や広島県に比較的多くに多くいらっしゃるようです。地域としては関東地方に多い名前のようです。特に大阪府のように大都市が最も多い場合一概に松浦さんの多くいる大阪府が苗字のルーツや発祥の地とは言えませんが、2番目に多い静岡県などには地名に松浦さんの名前がついているところがあるかもしれません。調べてみると苗字の意外なことがわかるかもしれませんね。そして大阪府や北海道や兵庫県に移り住まわれた方が多いようです。その後全国に広がっていったと思われます。
松浦さんの由来
- かつて名護屋城があった場所は、松浦水軍で有名な松浦党の旗頭である波多氏の一族、名護屋経述が築城した垣添城が存在した地。 1590年の小田原城の北の辺りに位置します。
- 平戸の松浦氏は貿易による財力を背景に一族をまとめ戦国大名としての力をつけ、秀吉による天下統一の時期には領地を安堵され、朝鮮出兵から秀吉の死後の関ヶ原合戦と続く動乱期にも巧みに時代を読みきり近世大名としての地位を得た。
- 松浦水軍、朝鮮半島の戦いでは安骨浦(アンコルボ)海戦で、朝鮮水軍の李舜臣と戦闘したが、多くが無事帰還した。秀吉没後には朝鮮半島から多くの兵を日本に連れ帰った。
- 元寇で活躍した松浦党、日本をフビライの侵略から守った勇者。 そして、海底遺跡として日本で初めて国史跡に認定され、「神風」によって沈んだ元寇船が眠るとされるのが松浦湾で有る。
- 秀吉の朝鮮出兵「文禄・慶長の役」のおり、当然ながら松浦水軍も駆り出された。その時、松浦党武士団の中から、高麗や、元に寝返る者が多く出た。なぜなら松浦党は元寇の際に、高麗・元の取り残され兵士が多かったからで有る。この時ばかりと、その末裔達の中からは裏切り者、朝鮮に従う者が多く出てしまった。その事が松浦の名を落とすきっかけで有る。そして秀吉からの信頼を落とし、村上や、九鬼との日本連合水軍の大将とはなれず、裏役に終わった。
- 武士団、松浦党の中には水軍部隊も確かに存在した。しかし水軍と言われたものの、他の水軍とは少々異なり、主に中国大陸・朝鮮半島の国々との貿易が主体で有り、互いに通行料を取る事などは無かった。また、他のような攻撃的な水軍では無いが、自分達の貿易船が海賊などに襲われた時には自衛出来るだけの能力は備えていた。海外交易で莫大な利益を得ていたので有るが、鎖国政策や、世の時世により水軍は消えたものの、多くの松浦党が後の日本の発展に貢献した。
- 秀吉の朝鮮出兵「文禄・慶長の役」のおり、当然ながら松浦水軍も駆り出された。その時、松浦党武士団の中から、朝鮮や、中国に寝返る者が多く出た。なぜなら松浦党は元寇の際に、高麗・元の取り残され兵士が多かったからで有る。この時ばかりと、その末裔達の中からは裏切り者、朝鮮に従う者が多く出てしまった。その事が松浦の名を落とすきっかけで有る。そして秀吉からの信頼を落とし、村上や、九鬼との日本連合水軍の大将とはなれず、裏役に終わった。
- 鎌倉時代に元のフビライは日本を属国に従えようと大軍を送ってきた。この 元寇の時、台風が吹き一夜にして元の大軍を蹴散らしてしまった。これが俗 に言う神風である。では本当に神風は吹いたのであろうか。 松浦党・水軍が活躍したとも史実に残る。 元は戦をして領土を広げていきました。元寇の時は領土にした敗軍の者を日本に向かわせたのです。主力となる戦のうまいモンゴル人は、文永の役の時30人、弘安の役の時にはたったの150人でした。ですから元軍は戦慣れしていない者が多く、意気も上がりませんでした。 1274年(文永11年)正月、元は高麗に対し、日本遠征のための造船の命を伝えた。造船作業は直ちにその15日から着工された。造船所には、木材が豊富で船の建造に便利な全州道(ぜんしゅうどう)の辺山(へんざん)および羅州道(らしゅうどう)の天冠山(てんかんさん)が選定された。役夫としては工匠および人夫3万5千名が徴集され、その3ヶ月の糧食3万4312石余もまた高麗の負担であった。建造の船数は、大船300隻、軽疾舟(けいしつしゅう)300隻、給水用の小舟300隻、計900隻。船の様式は、南中国様式では工費がかさんで期日に間に合わないので、高麗様式の簡略なものと指定された。この急いで簡略なものにしたという点が勝敗を決しました。 帰る船の大半を失った、元の兵士達は日本に帰属し、松浦党の配下や様々な所に散らばった。
- 松浦水軍をさんざん苦しめた朝鮮水軍李舜臣はその後もまたもや日本水軍部隊を果敢に撃退していた。豊臣秀吉没後の撤退する島津義弘勢の船団に襲いかかっていたので有る。
- 壇ノ浦の戦いの際に劣勢になった平家軍を裏切ったのは長崎の松浦水軍のみ。戦を前に戦況不利とみなし撤退した敵前逃亡衆。つまり裏切り者です。自らを恥じるべき。
【名字由来教えてください】
松浦姓の由来やルーツ、一族の伝承や秘話等についてご存知の方がいらっしゃいましたら教えていただけると助かります。よろしくお願いいたします。
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