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(2024/09/21 11:30:00:名無し) (2024/08/24 18:45:00:名無し) (2024/08/24 18:44:00:名無し) 生駒氏最後の家老四宮数馬の子孫である四宮陽一この記事を記す。
MD. shinomiya-iin@shore.ocn.ne.jp
Tel. 087-849-0201
(2024/08/20 19:19:00:四宮陽一) 四宮氏の祖先は、諏訪大社の大祝の神氏の直系であり、後三年の役に参戦して非業の死を遂げた神為仲より5代後の神行平が初代である。神為仲は信濃源氏為公の娘を妻として後三年の役に源義家に従い戦に出たが凱旋の途中で争いごとに巻き込まれて急死した。一族から神罰なりと言われて大祝の地位を弟の家系に譲り、為仲の一族は源氏に従い鎌倉幕府の御家人となった。神行平は諏訪大社の四つの宮(本宮,前宮、春宮、秋宮)を拠り所として四宮氏を名のることになりました。鎌倉時代初期に淡路守護横山時廣の守護代として淡路島福良に移住した一族は、1213年和田一族の乱に加担した罪で横山氏が滅ぼされた後、鎌倉幕府の御家人を離れ一豪族として淡路で生きることとなった。(鎌倉幕府の御家人にとどまった一族もあり、後に今川氏に仕え桶狭間の戦いにて戦死者を出した流れは、後に池田氏に仕え鳥取藩士として子孫今に存する)。南北朝時代になり、淡路の一族は足利幕府方の守護大名細川氏に属して讃岐、阿波に一族の支配地域を拡げた。戦国時代には、讃岐の引田城、鳴門、備前などの港を支配して瀬戸内海の東部を仕切る水軍を束ねていた。この頃から讃岐の豪族の香西氏と姻戚関係を結んでいる、又、足利幕府奉行職の齊藤氏から基胤(従五位下左衛門尉)を養子としているので一藤巴紋が入った。四宮光利の時に引田城を明け渡し、秀吉の臣となり乙井城(香川県さぬき市乙井)を築き諏訪神社を勧進した。子孫はその後、讃岐の大名生駒氏の家臣となり、生駒騒動の時、最後の家老として出羽矢島への移封、高松城明渡し、反乱武士の処刑などの後に家老を辞し香西地区の自開地50石を拠り所として帰農した。一族の家紋は、違い鎌、一藤巴、三階松、梶葉などがある。
(2024/08/20 19:09:00:sar) (2020/10/13 01:10:00:名無し) 例)世界中の四宮さん集合!! |
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