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崎浜秀英(1909~1994)経済人。那覇市出身。台北高等商業学校卒業後、日本勧業銀行台北支店勤務。1948、琉球銀行創立とともに同行に入行。 同行頭取、会長を歴任。琉球新報社編 沖縄コンパクト辞典より 崎浜秀主の四男 (2024/04/13 10:22:00:名無し) 崎浜秀主(1876~1962)那覇市東村(現那覇市上之蔵)に生まれる。早稲田大学出身、戦前は、教育畑で那覇商業学校の校長を務める。 戦後は沖縄中央銀行総裁(後の琉銀)、農林漁業中央金庫初代理事長を務める。 (2024/04/11 06:29:00:名無し) 伊江朝直は尚コウ王の五男で伊江家(向氏)に入婿します。朝直は11世で朝助が14世で15世が沖縄県出身で初めて大臣となった 伊江朝雄(1921~2007)になります。向氏とは第二尚氏の分家になります。伊江朝助、伊波普猷、崎浜秀主が写っている写真をみたことがあります。 (2024/04/10 06:03:00:名無し) ウチナー紀聞というRBCの番組で、琉球王国最後の三司官、宜湾朝保を取り上げていた。廃藩置県直後に維新慶賀使の副使として東京 の吹上御所の歌会で和歌を詠むなど、当時を代表する歌人でもあったそうです。1876年に亡くなっていますが、その年は、崎浜秀主 (県初の沖縄県師範学校教諭)が生まれた年です。維新慶賀使の正使は伊江朝直でその曾孫が伊江朝助になります。伊江朝助と崎浜秀主 は友人関係にありました。 (2024/04/08 06:17:00:名無し) ここでは、詳しく書けないので looewanan@gmail.com. (2024/03/17 16:23:00:名無し) 4代目秀統の三男は久米村の蔡家へ養子にいきます。蔡国器(高良親方上珍)を名乗ります。蔡国器の息子が蔡応瑞(高良親雲上献臣) で風水師です。応瑞の息子が蔡文薄(祝嶺親方天章)で四本堂家礼を著した人物です。 (2024/03/17 12:06:00:名無し) 崎濱姓を名乗るのは本部間切崎濱地頭職に転任した6代目秀盈からでした。名前は領地の配置換え等で変わっていきます。 兄弟、親子でも苗字は違うことはありました。同じ苗字でも、氏名が違えば違う門中になります。崎濱秀〇であれば牛氏系統 崎濱盛〇であれば、毛氏系統といった感じです。池宮城姓は4代目秀統の長男秀定から繫がる系統です。牛氏の本家は秀統の次男 秀政が継ぎます。現在の崎濱姓(秀〇)の方々はほぼこの方に繫がることは間違いないかと思います。さらに細かい系図では、 秀休家の系図を見たことがあります。各分家の系図が17世まで記載されています。秀休とは前述の秀盈、七代目秀筆、八代目秀房 の次男です。九代目は長男の秀綿が継ぎます。ちなみに私は、秀休(9世)の次男秀孟(10世)の次男秀挙(11世)の次男秀稟 (12世)の系統です。17世になります。 (2024/03/16 14:13:00:名無し) 三代目秀昌の頃は我那覇姓を名乗っていました。池宮城姓を名乗るのは四代目秀統からで、崎濱姓(崎浜)を名乗る のは七代目秀筆からです。紋章についてですが、推測ですが牛氏(崎濱家、池宮城家が属する門中の家名(唐名)) なので、牛の字をデザイン化したのではないかと思ってます。図書館で15代目までの系図を確認されたとのことですが、 比嘉朝進著の士族門中家譜にも15代秀平までの系図が記載されています。 (2024/03/16 09:36:00:名無し) 紙ハブと呼ばれた男を読んだ池宮城秀意について書かれた森口轄著です。三代目秀昌が秀吉に会ったことなど 門中のことについても書かれていた。年表を見てみると昭和38年(1963年5月)に琉球新報社長に就任とある。 同門中の崎濱秀英も同年に琉球銀行の総裁に就任しています。二人とも二中(現在の那覇高)卒で池宮城氏が二つ年長です。 (2024/03/12 06:23:00:名無し)
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