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蔡世昌 1756年に官生として国子監に留学する。帰国後、尚温王の国師となる。国学の設立と、官生騒動の原因となった官生 制度の改革を建言したと言われる。沖縄コンパクト辞典 琉球新報社編より (2024/04/30 06:21:00:名無し) 本日付け琉球新報に王府時代の印象・家譜寄贈の記事あり、内容を見てみると蔡氏宇栄原家の家譜のよう、中身を確認してみないと わからないが、おそらく蔡国器の孫で蔡応瑞の五男蔡文海の家系と思われる。ちなみに文海の孫は、尚温王の国師を務めたこともある 蔡世昌です。 (2024/04/29 17:22:00:名無し) 我那覇秀昌 十七世紀頃の那覇士族、唐名は牛助春、頭が大きく、大頭我那覇と呼ばれる。大阪城で豊臣秀吉に謁見した逸話が残り、のち島津 家久から琉球侵攻の先導役を命じられるがこれを断り、義臣として讃えられた。角川書店 沖縄県姓氏家系大辞典より (2024/04/20 15:30:00:名無し) 蔡国器(1632~1702)久米村蔡氏9世、実父は那覇の牛氏池宮城秀統。明末清初の動乱期、1653年国王請封と明朝勅印返還のために中国へ 渡り、のちに清国との交易をゆるされた。さらに動乱の続く中国へ、明・清両朝へ文書を携えて渡り、清国との関係維持に成功した。 角川書店 沖縄県姓氏家系大辞典より 池宮城秀統は本家4代目、豊臣秀吉に会ったことのある我那覇秀昌の長男 (2024/04/13 10:59:00:名無し) 池宮城秀意(1907~1989)ジャーナリスト。本部町生まれ。早稲田大学独文科卒。「沖縄日報」入社。戦時中は沖縄県立中央図書館の 司書に転じる。米軍の上陸直前、防衛召集。1946年ウルマ新報(琉球新報の前身)編集長。49年社長に就任。52年病気のため社を離れたが、 63年社長に復帰、74年会長。沖縄人権協会の発起人、平和をつくる百人委員会代表委員にも名を連ね、反戦・平和を主張し続けた。 琉球新報社編 沖縄コンパクト辞典より (2024/04/13 10:41:00:名無し) 崎浜秀雄(1912~2003)那覇市出身。県立第二中学校卒、S31~S47琉球政府立法図書館長、S47~S48県立図書館長。沖縄の本土復帰と 同時に再生した、沖縄県立図書館の初代館長になった人。 崎浜秀主の五男 (2024/04/13 10:30:00:名無し) 崎浜秀英(1909~1994)経済人。那覇市出身。台北高等商業学校卒業後、日本勧業銀行台北支店勤務。1948、琉球銀行創立とともに同行に入行。 同行頭取、会長を歴任。琉球新報社編 沖縄コンパクト辞典より 崎浜秀主の四男 (2024/04/13 10:22:00:名無し) 崎浜秀主(1876~1962)那覇市東村(現那覇市上之蔵)に生まれる。早稲田大学出身、戦前は、教育畑で那覇商業学校の校長を務める。 戦後は沖縄中央銀行総裁(後の琉銀)、農林漁業中央金庫初代理事長を務める。 (2024/04/11 06:29:00:名無し) 伊江朝直は尚コウ王の五男で伊江家(向氏)に入婿します。朝直は11世で朝助が14世で15世が沖縄県出身で初めて大臣となった 伊江朝雄(1921~2007)になります。向氏とは第二尚氏の分家になります。伊江朝助、伊波普猷、崎浜秀主が写っている写真をみたことがあります。 (2024/04/10 06:03:00:名無し) ウチナー紀聞というRBCの番組で、琉球王国最後の三司官、宜湾朝保を取り上げていた。廃藩置県直後に維新慶賀使の副使として東京 の吹上御所の歌会で和歌を詠むなど、当時を代表する歌人でもあったそうです。1876年に亡くなっていますが、その年は、崎浜秀主 (県初の沖縄県師範学校教諭)が生まれた年です。維新慶賀使の正使は伊江朝直でその曾孫が伊江朝助になります。伊江朝助と崎浜秀主 は友人関係にありました。 (2024/04/08 06:17:00:名無し) |
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