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子供は秀延(2代目)で妻は薩摩(鹿児島)出身荒木玄周の娘です。鹿児島との関わりはあります。秀延は中国に行く途中海賊 に襲われてなくなりました。3代目が秀昌で6男1女がありここから牛氏(崎濱、崎浜、池宮城等)一族の琉球での広がりをみ ます。
(2023/12/21 23:26:00:名無し)
秀実が日秀上人が同一人物であれば鹿児島に行ったことになります。家譜には秀実が鹿児島に行ったことも記載されていません。 琉球の歴史書球陽には、秀実と日秀上人が同年(1522年)に来琉していることから、同一人物であったのではとされている ようです。日秀という文字をひっくり返せば秀日となりシュウジツ(秀実)と読むこともできることから同一人物なのではとさ れています。門中の行事では、金武観音(日秀上人が創建)を拝むようです。鹿児島(霧島市)には日秀神社があり、近くの隼 人歴史民俗資料館には日秀上人遺品関係資料が展示されています。
(2023/12/21 23:16:00:名無し)

足あと(2023/12/20 03:56:00:名無し)

母に祖父について聞いたのですが、名前がわからないそうです。
(2023/12/17 12:29:00:名無し)
崎浜家のルーツがどの世代に繫がるかですが、おおよそですが二世代前(祖父)の出身地でわかります。 もともと、那覇出身であれば、本家に近い9世秀綿(8世秀房の長男)の系統、本部出身であれば9世秀休(8世秀房の次男) といった感じです。さらに細かくいうと、本部町の崎本部出身であれば9世秀綿の7男秀業に繫がるかと思います。 ファミリーヒストリーに出られた方は、おそらくこの系統かと思います。ちなみに沖縄の法制史の研究家であった崎浜秀明氏は、 秀休の系統(秀休の三男秀永の系統)ですが、さらに時代が下った2世代ほど下ったのち国頭村辺戸に移住した系統です。 秀明氏は東京で学校の先生をしていました。その子孫は東京にいます。お墓についてですが、昔のお墓のあとは波の上自動車学 校向かいのサンモウジという場所にありました。1年に1回入れるとかいうのは不明です。家譜については、直系の家譜の原本 は那覇市楚辺の直系に近い方が保管しており30年くらい前に見せてもらったことがあります。初代秀実は僧侶で日秀上人と関 係があるといわれています。秀吉にあったのは3代目の秀昌です。ちなみに、私は秀休の次男秀孟(秀休の次男)の系統で本部 町の上本部の系統です(生まれ育ちは那覇ですが)。
(2023/12/16 14:36:00:名無し)
私は、どの世代の崎浜家と繋がっているのかは不明なんです。
(2023/12/15 10:49:00:みゃおみゃお)
私は崎濱ですが、母の旧姓は嘉手川姓(卜氏名乗りが重、繁)です。繋がりとはあるもので、3世秀昌が薩摩が琉球を侵攻しようと していることを知らせる琉球王府への密書を卜氏出身(壱岐助重員)に託しています。8世秀房の妻も卜氏出身(嘉手川筑登之親雲 上繁能娘真蒲戸)です。ちなみに卜氏は薩摩水軍の出とも言われています。
(2023/12/14 21:58:00:名無し)
ファミリーヒストリーでは、豊臣秀吉に朝見したことを紹介したのちに、薩摩の琉球侵攻の先導役を拒否されたことが紹介されて いましたが、秀吉に朝見したのが1585年で、薩摩の件は1605年の事です。
(2023/12/13 06:26:00:名無し)
このページを見ている人は牛氏(崎浜、崎濱、池宮城)関係者が多いかと思います。私は崎濱です。
(2023/12/12 23:39:00:名無し)
(2023/12/11 20:54:00:名無し)
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