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日秀上人が牛氏門中と関係があるか、いろいろ調べてみると面白いと思います。
(2021/10/02 20:54:00:名無し)
球陽のP161には、那覇の伊呂農辺(イロノベ)にある御蔵を賜ったとあります。現在の辻あたりのようで、イロノベが牛氏門中の発祥の地となっています。墓についても御拝領墓ということで、サンモウジ(現在は公園となっている)とよばれるところにありました。イロノベもこの周辺であったといわれています。墓所跡には、坊主神の碑が立っています。ボウリング場となりの公園です。
(2021/09/03 22:53:00:名無し)
附巻1(p685)の始めて仕上世座職を設く。があります。牛助春は秀昌の唐名、p682は、豊臣秀吉に朝見したことと、琉球侵攻の先導役を断ったことが記されています。仕上座とは、薩摩に年貢を納める役職です。
(2021/09/01 19:12:00:名無し)
三代目秀昌の球陽における記事は、附巻1(P682)に十六年、牛助春、身命を顧みず、薩州の命に反く。と
(2021/09/01 19:04:00:名無し)
1585年は、3代目秀昌が豊臣秀吉に朝見した年でもあります。の間違いでした。
(2021/08/30 21:10:00:名無し)
当時の琉球は交易で成り立っていた国で、中国へ渡るにも命がけでした。2代目秀延は、1585年那覇港を出帆して暴風雨に会い行方不明になっています。1585年は、3代目秀昌が豊臣秀でもあります。でもあります。
(2021/08/30 21:08:00:名無し)
秀実の記事は、球陽巻三(球陽読み下し編のP161)に記載されていますが、球陽巻三には、日秀上人(初代と同一人物説、関係者説がある)の記事もいくつか記載されています。
(2021/08/30 20:45:00:名無し)
沢岻親方盛里は、護佐丸の孫にあたる人物です。
(2021/08/30 20:02:00:名無し)
秀実は日本僧で中国に渡る志を抱いて来琉、後に毛氏の沢岻親方盛里と中国に渡り、帰国後、日本に帰りたいと申し出たが尚真王に留められたとのことです。日本人の思戸を妻に娶ります。
(2021/08/30 20:00:00:名無し)
初代秀実(唐名:牛起龍)は1522年に来琉したとされているので、来年は500年目に当たる年です。秀実は40代であったようです。
(2021/08/30 01:05:00:名無し)
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