野々口 姓の由来

野々口 由来

野々口姓に関する由来・ルーツのページです。"野々口"がつく地名、同姓の多い地域、使われている字の意味、成り立ちや出自といった様々な観点でルーツを検証しています。またユーザ様よりよせられたこの苗字のルーツや逸話等を掲載しております。掲載されていないルーツや逸話をご存知の方は教えていただけると助かります。

野々口姓の名字の由来と起源に関する投稿

関東管領の足利貞氏は上杉家から清子をめとり二人の男子が生まれた。長子が高氏、次男が直義。足利兄弟は北条家を打倒し、その後高氏は名を尊氏とあらため室町幕府を開いたが、弟直義は毒殺される。 直義の子供は山陰の石州津和野(野口)に逃れ、後裔が丹波にたち戻り野々口を名のって本梅の荘を領有した。家紋は「三つ引両」紋である。(足利家は「二つ引両」) 埴生城は最福寺の南東、南の山塊から北へ伸びた尾根の先端頂部に築かれている。埴生城は野々口氏の居城として知られ、室町時代中期に野々口左衛門尉親永が築城した。単郭の小城で小さく南北二段の曲輪になっている。南背後には石垣造の櫓台があり、その背後を堀切で遮断している。曲輪の西と東側面には石垣の残存を見ることができる。曲輪の北西隅もやや高く、その南側に虎口があり、虎口付近も石垣で固められている。『日本城郭大系』によれば、現在北西麓にある最福寺は廃城後にこの地に建立されていたという。 野々口清親(西蔵坊)の代には亀岡市宮前町宮川の金輪寺周縁にある神尾山城(別名 本目城)の城主となり、埴生城は神尾山城の支城となった。織田信長の丹波侵攻に伴い天正7年(1579)に明智光秀に攻められ降伏。野々口清親は光秀方となり、 八上城攻めの際には波多野氏との和睦交渉に努めた。 天正10年の本能寺の変に従軍し、明智滅亡後の後小牧長久手の戦いでは、丹波衆を率いて秀吉軍に従軍し伊勢亀山攻めに参加している。 南丹市園部町埴生 最福寺(曹洞宗) に野々口清親(西蔵坊)の位牌が祀られている また埴生集落の小高い八幡山 には、野々口左衛門尉親永の大きな碑が建てられている。
4/6/24, 12:00 AM

文字の意味から由来を探る

‘野’の由来

種類:会意兼形声文字
意味:の。のはら。ありのまま。自然の。いやしい。
由来:予ヨは、□印の物を横に引きずらしたさまを示し、のびる意を含む。野は「里+音符予」で、横にのびた広い田畑、のはらのこと。古字の埜ヤは「林+土」の会意文字。

‘々’の由来

種類:文字
意味:
由来:

‘口’の由来

種類:象形文字
意味:くち。言葉。出入りぐち。刀剣を数える助数詞。
由来:人間のくちやあなを描いたもの。その音がつづまれば谷(あなのあいたたに)、語尾が伸びれば孔(あな)や空(筒抜けのあな)となる。いずれも、中空にあなのあいた意を含む。

地名から由来を探る

地名ルーツの名字は多いため地名に名字が含まれるものを見てみましょう。「野々口」を含む地名を都道府県ごとに表示しています。

三重県
松阪市飯高町野々口の地図 松阪市飯高町野々口
(まつさかしいいたかちょうののぐち)
岡山県
岡山市北区御津野々口の地図 岡山市北区御津野々口
(おかやましきたくみつののくち)
※発祥の地や何らかの関わりがあることを保障するものではありません。もし記載の地名と発祥の関係をご存知の方は是非教えてください

住んでいる地域から由来を探る

本サイトのデータでは野々口姓の方は全国に殆どいらっしゃらないようす。 最も多く住んでいらっしゃる都道府県は京都府のようです。その後兵庫県、大阪府にいらっしゃる方が多くなっているようです。最も多い京都府と2番目の兵庫県の差は倍以上あるため、もしかすると京都府がこの苗字発祥の地といえるかもしれません。野々口姓の方は3位までの都道府県における地名には見られないことから、地名が由来というわけではないと思われます。
順位 都道府県 世帯数
1位京都府約760人
2位兵庫県約300人
3位大阪府約300人
4位熊本県約110人
5位滋賀県約90人
6位東京都約60人
7位愛知県約50人
8位神奈川県約50人
9位青森県約50人
10位岡山県約40人

野々口姓の成り立ち

地名地形職業事物拝領明治派生外来

野々口姓の出自

武家公家庶民職人神主

野々口姓の起源

アイヌ蝦夷琉球台湾中国朝鮮その他

氏神の由来を探す

苗字にはその地域で称えられていたものに由来するケースもあります。ここでは"野々口"の名がつく神社を紹介しています。
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