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長田姓の石川県内分布
このページは長田さんが石川県に何人くらいいるか市区町村毎のおおよその世帯数を表したものです。
長田さんの分布状況の参考にしてください。
※あくまで参考値であり保証するものではありません。
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※本サイトではプライバシー保護のため人口が少ない場合は[ほとんどいない]、[0~10人前後]等と表現させていただいております。各市区町村の合計と[石川県の推定人口]は一致しません。
石川県の推定人口 | 1,600人程度 | 石川県の推定順位 | 116位 |
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長田姓の由来
- 長田(おさだ)氏は、桓武平氏の一流である良兼流あるいは良正流を汲む氏族とされています。良兼の孫致頼の代に長田を称して、尾張国に勢力を張り、尾張平氏とも呼ばれたようです。平致頼の5世孫にあたる長田忠致は、尾張国野間(愛知県知多郡美浜町)を本拠地とし、平治の乱で敗れた源義朝を最初かくまったのですが、平家が探していること、恩賞を与えることや、かくまっていると一族皆殺になることから義朝を浴場で騙し討ちにし、六波羅の平清盛に首を差し出しました。この際、義朝の部下の鎌田政清も同時に殺害されたため、嘆き悲しんだ長田忠致の娘(政清の妻)は川に身を投げて自殺したとのことです。兄の親致は相談を持ちかけられた際、その不義を説いていたが、前述のような事件が起きてしまい、乳母の生まれ故郷である大浜郷棚尾に移り住んで難を逃れています。 義朝を討った功により忠致は壱岐守に任ぜられるが、この行賞に対して不満を示し「左馬頭、そうでなくともせめて尾張か美濃の国司にはなって然るべきである」と申し立てたため、清盛らの怒りを買い処罰されそうになり引き下がった。 後に源頼朝が兵を挙げると親子で謝りに行き、その列に加わった。忠致は頼朝の実父殺しという重罪を負う身であったが、頼朝から「懸命に働いたならば美濃尾張をやる」と言われ懸命に働いた。しかし平家追討後に頼朝が覇権を握ると、その父の仇として頼朝の命によって処刑された。その折には「約束通り、身の終わり(美濃尾張)をくれてやる」と言われたと伝えられている。建久元年10月の頼朝の上洛の際に、美濃で斬首された。刑場の高札には「嫌へども命のほどは壱岐(生)の守 身の終わり(美濃・尾張)をぞ今は賜わる」という歌が書かれていた。 その後、子孫は武田氏を頼って甲斐国へ逃げたという説もあり、山梨県に今でも長田家は存在する。また、徳川氏譜代家臣の永井氏(永井直勝)や長田氏は忠致の兄・親致の後裔を称している。平家も源氏も滅び断家してしまったようだが、長田氏、永井氏は今もその子孫を残すことができている。やられてもやり返さない。甘んじて罪や業を受けていくこと、神仏を尊び、生かされている感謝を持っていくことが命脈をつなげるには大事なようである。
【名字由来教えてください】
長田姓の由来やルーツ、一族の伝承や秘話等についてご存知の方がいらっしゃいましたら教えていただけると助かります。よろしくお願いいたします。
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