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穴太の集落は比叡山や日吉大社の近くにありますが石垣、石組など石材の採れる山を取り込んだ地域です。古来から神の山とされてきた比叡山自体も石材の大供給地、いわば宝の山であり山塊としてつながっているのが見てとれます。日吉大社の門前町として坂本地区が賑わっていますが、比叡山延暦寺、天台宗開祖の最澄は実は坂本の生まれです。日吉大社の入口近くに生源寺という寺がありますが、この辺りで出生したのだと云われます。坂本本町の町名由来もここにあるのかも知れません。
(2023/11/11 22:29:00:三浦屋)
戦国時代以前の彼らの仕事は、五輪塔や石臼づくりが中心でありました。それが劇的に変化したのは比叡山延暦寺の造営と深くかかわっているといいます。
(2023/11/10 20:46:00:三浦屋)
西暦100年代すなわち日本列島の2世紀は景行、成務、仲哀の三帝が高穴穂宮たかあなほのみやに都を置いたと云われています。場所は現在の大津市穴太に比定されていますが、考古学的な遺構は全く確認されていません。同地にある高穴穂神社を宮跡とする伝承はあります。穴穂あなほと穴太は同義語と思われますが、朝鮮半島に地名穴太があるとも云われます。
(2023/11/05 21:32:00:三浦屋)
伝説的には、すでに秀吉の前半生において工匠との濃い関係が見え隠れしております。その後、彼が膨大な数の建築造営にかかわり[普請狂]とまでいわれた要因はここにありそうです。また、戦国職人集団特集のなかで穴太石工について説明しておりますが、先祖は百済系の一族といわれています。大陸系なのか半島系なのかはここでは判りません。さらに経典の書写などで活躍した穴太姓の名が朝廷の古記録にみえます。
(2023/11/03 19:29:00:三浦屋)
比叡山の隣り大津市坂本にある日吉大社は元より日吉神社の総本山であり猿を神獣としています。近くの穴太の領主は北政所のおじである杉原家次です。穴太の石工は日吉大社の修理役でもあります。秀吉に関係する様々な伝説に共通しているのは、8歳になった秀吉が放浪の旅に出ていくつかの職業を体験することであり、この放浪がワタリを連想させるばかりか体験した職業の中に大工があったことです。秀吉がのちに近江大工ばかりを好んで重用した背景には近江の技術者集団への弟子入り体験や自らの大工経験があったとしても想像に難くないでしょう。
(2023/11/03 11:14:00:三浦屋)
秀吉の幼名日吉丸は、母なかが日吉権現に祈って生まれた為命名されたことになっています。この日吉権現はワタリの守護神であったと指摘しています(小和田氏)。現在の中村区日ノ宮町にある日ノ宮神社(以前は日吉権現の名称)がそうだと伝わりますが、場所が違うとも云われます。母なかが祈願した日吉権現は秀吉が大坂に遷宮したのだとも言われ後に家康の時代になり破却したといいます。この中村区にある日吉権現は不思議なことに創建年代や祭神、旧社格が一切不明です。神社という存在は潰れそうな小社古社であっても何か一つくらいの由緒は必ず伝わっているものですが、この日吉権現はいつ頃建立したか不明といいます。日吉宮自体は滋賀県大津市に大社もあり由緒もハッキリした神社です。徳川幕府では秀吉を神格化することを禁じたそうですから体裁を保つためにあとから建立したものであろうという識者もいます。
(2023/10/29 17:14:00:三浦屋)
秀吉の妻おねにしても尾張国朝日村の出身ですが、この朝日村は木地師などの技術者集団の地であり、ゴキソ御器所(現名古屋市昭和区)なども同様であります。朝日村の朝日は億ウソ流では朝鮮半島に出自を持つ地名です。ただし、漂白の民や技術者すべてが半島に由緒を持っているわけではありません。
(2023/10/29 13:16:00:三浦屋)
前述致しましたが、兵農未分離状態戦国期における定住地を持たない技術者を俗にワタリといいました。実は、あの豊臣秀吉の出自はワタリに関係する可能性が高いと織豊政権研究家小和田氏の主張であります。まず、秀吉の母なか(のちの大政所)はワタリの鍛冶師関兼定の娘といわれ、秀吉自らも近江浅井郡の鍛冶師に弟子入りしたとの伝承があります。さらに秀吉の祖父国吉も近江浅井郡の出身であると云われています。
(2023/10/28 17:27:00:三浦屋)
大日如来を祀る小社は正式には大日堂と呼ばれており、東側の畑地一帯が板碑遺跡群跡と思われます。明治以前、神仏混淆の時代は仙台地方では羽黒堂や熊野堂、紅堂、観音堂、不動堂などほとんどが[お堂]の名称です。また、東部道路の通過ルート付近は海岸に接近しているのにも拘らず弥生遺跡や古墳、戦国期の館である沖野、長喜城、今泉、堀江、霞目など古くから先人たちの活動跡が多く残されていることに驚きます。
(2023/10/22 22:32:00:三浦屋)
神屋敷地区に大日如来が祀ってあり何やら由緒ありげな山伏系地名であろうと兼ね兼ね思っていました。江戸期は寺院の配置とは別に一集落に一人の山伏が居ました。ただ山伏ゆかりの村々を観ると必ずしも神がかった地名ではありません。旧羽黒町に集まる宿坊地区の手向とうげ、北上市和賀町岩口の多聞院伊沢家など通常の地名となっています。よくよく調べると神屋敷地区には大日板碑群の遺跡があって過去に発掘されています。板碑群は宮城県に比較的多く発見されております。板碑というのは、鎌倉期〜室町期に造られた石造りの供養塔のことです。
(2023/10/22 17:28:00:三浦屋)
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