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喜友名選手はスーパーリンペイの使い手でもありますが、スーパーリンペイは剛柔流最高峰の型です。 (2021/08/19 22:56:00:名無し) 6代目秀盛の妻は衛氏仲井間筑登之親雲上吉方の娘、真味津と言います。衛氏は空手の流派、劉衛流を起こした家で、今回オリンピックで金メダルを取りましたが予選から決勝まですべて劉衛流の型でした。 (2021/08/19 22:38:00:名無し) 牛氏出身の空手家で紹介した崎浜秀英(1911年生まれ)についてですが、上地流の初代の完文の高弟の間違いでした。上地流について・・・中国福建省を中心に発達した南派小林拳の門派をくむ、パイガイヌーン流と呼ばれる拳法が初源だと伝えられている。 (2021/08/18 23:46:00:名無し) 6代目の秀盈は1698年には御物城職(那覇行政長)、1700年に那覇躍奉行、1708年に八重山在番(八重山の行政・司法の監督)を務め、1710年64歳で亡くなっています。 (2021/08/17 22:25:00:さきはま) 正確に言うと、6代目秀盈は、1698年に本部間切崎濱地頭職になるので、この時から崎濱姓を名乗るといってよいかもしれません。 (2021/08/17 22:14:00:さきはま) 初代、2代目は沢岻、3代目は我那覇、4代、5代目は池宮城、6代目は仲本、7代目から崎濱を名乗ります。 (2021/08/15 09:39:00:名無し) 琉球王朝時代は、親子でも花城、我那覇のように家名が変わることはありましたが、唐名の牛はかわらないので、名乗りの秀と唐名の牛で同門中かを判断しました。 (2021/08/15 09:26:00:名無し) 日本名は花城親雲上秀咸、我那覇親雲上秀昌です。 (2021/08/15 09:18:00:名無し) ちなみに、秀咸の唐名は牛似廉といい、秀昌は牛助春といいます。 (2021/08/14 15:15:00:さきはま) 自然災害が多いこの頃ですが、三世秀昌の三男秀咸は、花城地頭の時、花城村を守るため枯葉手樹(モモタマナ)を植えて、暴風雨を防いだことが、球陽(422)に記されています。現在の若狭海岸沿いにあたるそうです。 (2021/08/13 19:56:00:名無し) |
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