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正確に言うと、6代目秀盈は、1698年に本部間切崎濱地頭職になるので、この時から崎濱姓を名乗るといってよいかもしれません。
(2021/08/17 22:14:00:さきはま)
初代、2代目は沢岻、3代目は我那覇、4代、5代目は池宮城、6代目は仲本、7代目から崎濱を名乗ります。
(2021/08/15 09:39:00:名無し)
琉球王朝時代は、親子でも花城、我那覇のように家名が変わることはありましたが、唐名の牛はかわらないので、名乗りの秀と唐名の牛で同門中かを判断しました。
(2021/08/15 09:26:00:名無し)
日本名は花城親雲上秀咸、我那覇親雲上秀昌です。
(2021/08/15 09:18:00:名無し)
ちなみに、秀咸の唐名は牛似廉といい、秀昌は牛助春といいます。
(2021/08/14 15:15:00:さきはま)
自然災害が多いこの頃ですが、三世秀昌の三男秀咸は、花城地頭の時、花城村を守るため枯葉手樹(モモタマナ)を植えて、暴風雨を防いだことが、球陽(422)に記されています。現在の若狭海岸沿いにあたるそうです。
(2021/08/13 19:56:00:名無し)
喜友名選手が空手で金メダルをとりましたが、空手における門中の関わりですが、上地流の2代目上地完英氏の高弟に崎浜秀英氏(前出の銀行出身とは別人)がいました。子孫は、和歌山県にいるようです。ちなみに、現全沖縄空手道連盟会長の池宮城氏も同門中です。
(2021/08/08 21:46:00:名無し)
夏の甲子園を目指す、沖縄県予選は沖縄尚学が優勝しましたが、同校の校歌を作詞したのは崎浜秀主氏です。秀主氏は泊小学校の校歌作詞していますが、いずれも校歌としてはかなり短い詩となっています。
(2021/07/20 04:45:00:名無し)
6世秀盈~12世秀寿まで崎浜地頭職を務めます。13世秀孝の時、阿波連地頭職となり阿波連姓を名乗った時期もあるようですが、15世秀平の時に、元の崎浜姓に改姓したようです。
(2021/06/25 20:59:00:名無し)
6世秀盈は、本部間切崎浜地頭職(1698年)になり、この時から崎浜姓を名乗ることになります。
(2021/06/24 21:17:00:名無し)
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