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秀明氏は、国頭辺戸の出身ですが、戦後は東京で学校の先生をしていました。 (2021/02/03 18:57:00:サキハマ) 崎浜秀明氏は、敗戦直後に結成された沖縄文化協会に初期から参加、東恩納寛惇、比嘉春潮、外間守善、仲原善忠ら先達とともに沖縄研究に情熱を注いだ方です。2004年にお亡くなりになられています。 (2021/02/03 18:55:00:サキハマ) 蔡世昌は琉球科律を編纂しましたが、近代の琉球法制史研究者に崎浜秀明氏がいました。繋がりを感じさせます。 (2021/02/03 07:35:00:さきはま) 国学を建議したりしましたが、官生騒動で、迫害を受け失意のうち亡くなっています。蔡世昌には、琉球、大和、中国の血が混ざり小さな縄張り意識はなかったのかもしれません。 (2021/02/03 07:32:00:さきはま) 蔡国器の系統には蔡世昌という人物がいて、国士監に留学、琉球科律の編纂、時の国王尚温の国師を務めました。 (2021/02/03 07:16:00:さきはま) 本部町他やんばるで広がっている崎浜家は、8世秀房の次男秀休の系統が多いようです。 (2021/02/02 19:45:00:名無し) 6世の秀盈は1708年に八重山在番(八重山の行政司法の監督)も勤めています。 (2021/02/02 19:40:00:名無し) 訂正です。4世は秀統で、御物城職は6世秀盈も就いています。秀盈の時に崎浜地頭職となりこれ以後、崎浜姓を名乗ります・ (2021/02/02 19:37:00:名無し) 蔡国器は久米村総役も務めたようです。 (2021/02/02 05:48:00:さきはま) 初代秀実から那覇士族として琉球王府で務めることになりますが、4世秀昌、7世秀筆、9世秀綿は那覇士族の最高職(御物城職)に就きました。王朝時代は家格により昇進も制限されていたので、那覇士族が王府中枢まで昇進するのは難しかったようです。出身で一番昇進したのは、久米村(久米士族)に養子に行った蔡国器で当時の位階でいう紫金大夫(親方)まで昇進しました。 (2021/02/02 05:44:00:さきはま) |
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