九鬼さんの愛知県分布

九鬼の世帯数
このページは九鬼さんが愛知県に何人くらいいるか市区町村毎のおおよその世帯数を表したものです。 九鬼さんの分布状況の参考にしてください。
※あくまで参考値であり保証するものではありません。

※本サイトではプライバシー保護のため人口が少ない場合は[ほとんどいない]、[0~10人前後]等と表現させていただいております。各市区町村の合計と[愛知県の推定人口]は一致しません。

愛知県の推定人口200人程度 愛知県の推定順位2716位
順位 市区町村 九鬼 人口
名古屋市約40人
一宮市0~10人前後
春日井市0~10人前後
稲沢市0~10人前後
豊橋市0~10人前後
岡崎市0~10人前後
愛知郡0~10人前後
東海市0~10人前後
津島市0~10人前後
犬山市0~10人前後
順位 市区町村 九鬼 人口
11位知多郡0~10人前後

九鬼さんの由来

  • 後醍醐天皇が熊野詣する際に身の回りの世話をしていた、その仕事ぶりが認められていただいた姓。鬼の字には点が無く、鬼の角が取れた優しい鬼という意味も。また点の無い鬼は「カミ」とも読むらしい。鬼はもともと人の心の裏側を表しており、心持ち次第で鬼にも神にもなる表裏一体な存在であった。そうした神聖な意味で拝領した名字だといえる。
  • 綾部藩主家は現和歌山県と三重県南部である紀伊国牟婁郡九鬼浦が起源
  • 「九鬼」の名が歴史の大舞台に登場するのは、「九鬼嘉隆」という人物がいたからです。熊野の各水軍を一つにまとめ、戦国時代に活躍しました
  • 九鬼村(くきむら)は三重県北牟婁郡にあった村。現在の尾鷲市の南東部、紀勢本線・九鬼駅の周辺にあたる。
  • 村名検討時に九木が旧来は九鬼と表記したこと、九鬼氏の居城跡があったことなどから、「九鬼村」の表記が採用された。
  • 九鬼水軍は、戦国時代の水軍。志摩国を本拠とし、九鬼氏に率いられた。強力な水軍であった毛利水軍を第二次木津川口の戦いで破り、織田信長方の水軍として近畿圏の制海権を奪取した。織田水軍・志摩水軍 とも称する。九鬼嘉隆は鉄甲船を建造した。
  • 九鬼 嘉隆(くき よしたか、旧字体:九鬼嘉隆)は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。九鬼水軍を率いた水軍武将であり、九鬼氏の第8代当主である。
  • 水軍の将 九鬼嘉隆. 鳥羽城は九鬼水軍として活躍した九鬼嘉隆により、文禄3(1594)年に. 築城された。志摩水軍の本拠地、鳥羽は平家一門の隠れ家。
  • 三田城城主の九鬼家といえば、「水軍、陸にのぼる」という歴史ストーリーがよく知られています。 伊勢志摩で勢力を伸ばす水軍の将として知られた九鬼嘉隆
  • 九鬼氏は、熊野海賊の一員であったと言われています。海賊と言っても、現在イメージする海の盗賊団という意味ではなく、中世において、船団によって海上を制圧していた各地の軍団のことで、水軍とも呼ばれています。熊野から伊勢にかけても多くの海賊衆が存在していました。九鬼氏もその一つで、史料にはっきりと名前が現われるのは14世紀半ばのことです。当時は南北朝の動乱期で、各地で様々な勢力が盛衰を繰り返していました。九鬼氏は、水軍を背景に、相差や泊(鳥羽)などの志摩地方に力を伸ばしていきました。  伊勢・志摩の海賊衆は、関東から東海にかけての戦国大名の水軍として組織され、北条氏・武田氏・徳川氏などの戦国大名の海上戦力となるとともに、伊勢の米をはじめとする物資を関東方面に供給する廻船としての役割も果たしていたようです。  九鬼氏は、織田信長に仕えることとなり、伊勢長島の一向一揆攻めで功績をあげ、大きく力を伸ばしました。信長の死後は秀吉に仕え、朝鮮へも主力水軍として従軍しています。関ケ原の戦いでは、嘉隆(よしたか)と守隆(もりたか)の親子が東軍と西軍に分れて戦い、家康に功績を認められた守隆がその後の志摩の領主として君臨しました。
  • 水軍あっての九鬼氏でしたが、残念なことに、江戸幕府は諸大名の戦力や経済力を弱めるために、大型船の所持を禁止しました。諸大名の大型船を集めさせ、取り上げてしまったのです。その船の受取りに当たったのが九鬼守隆で、その仕事は各地の水軍の頂点に立つものでしたが、一方、これが水軍の将としての最後の仕事でもありました。
  • 天文11(1542)年、九鬼嘉隆は九鬼水軍の定隆の三男として志摩国英虞郡波切城で生まれました。 母は甲賀の人間と伝わります。九鬼氏は藤原北家の流れになります。
  • 九鬼嘉隆率いる戦国時代屈指の志摩水軍。まるで城にいるかのような船内の大将船。
  • 九鬼嘉隆は、戦国から安土桃山時代、織田信長、豊臣秀吉に仕え、九鬼水軍を率いて活躍。織田信長の時代、信長の命により鉄甲船を建造して毛利水軍・村上水軍を破り、豊臣秀吉の時代には朝鮮出兵の際に、「日本丸」という大型軍船を建造し、水軍総大将として大船団を率いて活躍する等の功績により文禄3(1594)年、鳥羽城を築城し城主となった。
  • 関ヶ原の戦いでは、嘉隆は西軍に加わり、家督を譲った息子・守隆は東軍に属し、親子で敵味方に分かれ戦うも西軍は敗れ、嘉隆は自害した。
  • 特に織田信長、豊臣秀吉に取り立てられ、徳川家康にも仕えた。志摩の各水軍を一つにまとめ上げた九鬼氏です。
  • 九鬼嘉隆は小さな水軍から身を起こし、織田、豊臣の水軍大将に上り詰めました。 荒々しいイメージとは裏腹に、茶の湯にも通じていたと言われています。
  • 志摩国には、13の水軍が割拠していました。定隆は英虞郡の波切城と答志郡の田城城の二つの城を持っていたのです。
  • 九鬼水軍の戦術においては、船上からの鉄砲による一斉射撃を取り入れています。これにより、かつての九鬼氏の居城・田城城の奪回を果たしました。嘉隆たち九鬼水軍は、信長の援助の下で志摩国を平定したのです。 鉄砲戦術は、主に長篠の戦いで注目されますが、海上戦術にも実用化されていたことがわかります。ここに至って、嘉隆は信長から志摩国の統治と九鬼氏の家督相続が認められました。
  • 織田家は、その後一向一揆の総本山である石山本願寺に攻勢を強めていきました。やがて破竹の勢いの嘉隆と織田軍の前に、強大な敵が立ちはだかります。石山本願寺側に、毛利水軍(村上水軍も参加)が付いたのです。 同4(1576)年に、摂津国木津川沖で嘉隆ら織田水軍と毛利水軍が海戦に及びました。ここで織田水軍の多くは、毛利水軍の焙烙玉に船を焼かれて大敗を喫してしまったのです。 しかしこれで終わる嘉隆ではありません。信長の命令を受け、燃えない船を建造するべく動き始めます。嘉隆は元来の関船の上部を鉄板で加工した「鉄甲船」を完成させました。 雪辱を晴らすかの如く、嘉隆ら織田水軍は同6(1578)年に、再び木津川沖で毛利水軍と海戦が行われます。鉄甲船は焙烙玉や火を寄せ付けず、結果は織田水軍の大勝利に終わりました。
  • 織田信長により、嘉隆は志摩国に加えて、摂津に7千石を加増されています。 摂津への領地加増は、いわば嘉隆が信長から瀬戸内の制海権を与えられたとも解釈できます。それほど大きな期待を持たれておりました。
  • 天正15(1587)年の村上・毛利水軍平定、同18(1590)年の小田原征伐に豊臣水軍の総大将として参加しています。
  • 天正20(1592)年、豊臣政権は朝鮮出兵に乗り出しました。文禄の役で嘉隆は、脇坂安治、加藤嘉明と並んで水軍の司令官として出陣します。ここに至って、嘉隆は正式に日本国の水軍の代表的立場となったと言えます。
  • 嘉隆は西軍、守隆は東軍に所属します。どちらが勝っても、九鬼家を存続させるためだと言われています。信濃の真田家でも同様に、親兄弟が東西に分かれていますから、当時は普遍的な戦略でした。
  • 嘉隆がいたからこそ、伊勢湾から大坂湾までの海上交通は機能し、朝鮮出兵での犠牲が少なく抑えられたと言えます。海賊大名、というより、水軍大名と称するべきなのかも知れません。
  • 木津川口の戦い(だいいちじきづがわぐちのたたかい)は、天正4年(1576年)に毛利氏と織田氏との間に起こった海戦である。戦闘は主に大阪湾木津川河口で行われた。 毛利方、村上水軍の使用する焙烙玉・火矢の前に織田方の水軍は壊滅的な打撃を受け、敗退したが、織田信長は諦めず九鬼とともに最後には日本水軍の総大将となった。
  • 毛利水軍の強さを改めて知る事となった織田信長は、「九鬼嘉隆」にこれに対抗する燃えない鉄製の船を建造するように命じました。
  • 伊勢湾・紀伊水道・熊野灘一帯の海域を制していた水軍の武将である。織田信長の死後は豊臣秀吉に仕えて、その豊臣水軍の大将格として活躍する。文禄の役では、主力戦艦である安宅船「日本号」を率いて渡海し、藤堂高虎・脇坂安治らとともに李舜臣の朝鮮水軍と戦う。
  • 名護屋城図屏風に描かれた丘陵の上に石垣と塀で囲まれた場所。水軍の将にふさわしく、岬の上に陣を築いています。
  • 九鬼嘉隆は、志摩国に生まれ、織田信長に仕えるようになりました。伊勢長島の一向一揆、石山本願寺の戦いでは九鬼水軍を率いて活躍しています。 摂津木津川口の海戦では、村上水軍に敗退しました。
  • 文禄・慶長の役では、水軍の総大将として軍役15,000人で名護屋城に参陣しています。九鬼水軍は「日本丸」で、朝鮮半島に渡海し、脇坂安治や藤堂高虎らと共に朝鮮国水軍の李舜臣と戦闘し、敗退する。
  • かつての毛利・村上水軍、松浦水軍の衆らと共に秀吉の命を受け、連合水軍の総大将として軍役15,000人で名護屋城より朝鮮半島に渡海し朝鮮国水軍の李舜臣と戦闘するも無残に敗退する。
  • 天下統一を目指す織田信長、 村上水軍に敗退す。 毛利め、やりよるわ 嘉隆よ、 ほうろくに焼かれぬ船をつくるのじゃ 次、敗退する時あらば、そちの首は無いぞ 信長
  • 第1次木津川口の戦いで九鬼水軍は、毛利水軍にほうろく火矢を撃ちかけられ、大炎上。敗退したが、第2次木津川口の戦いには、新造の鉄甲船6隻を投入、これは火炎攻撃にはびくともせず、大型大砲に鉄砲を装備し見事勝利する。
  • 毛利、村上水軍の焙烙火矢にしてやられた九鬼嘉隆は火炎にびくともしない鉄装甲の船を造り、ここ木津川表に回航させていたのである。 いよいよ宿命の天正 6年 11月 6日朝を迎える。会戦は九鬼嘉隆の包囲陣に毛利水軍 600余艘が仕掛けた。記録では「始めのうちは毛利軍優勢のうちに推移したかに見えたが、鉄装甲の船には鉄砲も砲も歯が立たず、焙烙や火矢に燃えることもなく、そのうち 6隻の大船の大砲が威力を発揮、敵船を間近に寄せおいて、旗艦を打ち崩したから、敵船は恐れをなしてそれ以上寄せてこなかった。
  • 信長は石山本願寺に協力した武田信玄や上杉謙信・朝倉義景(よしかげ)・浅井長政などによる信長包囲網、すべてを敵に回して戦う事になった信長でしたが、さらに村上水軍にも阻まれたので有る。
  • 三重県鳥羽市の鳥羽湾を牙城に、信長・秀吉と天下統一を果たした水軍大将。
  • 伊勢志摩の造船業を栄えさせた功績。
  • 日本初の軍艦で有る鉄鋼船を作った九鬼水軍。機動力には劣り、朝鮮水軍部隊に苦しめられる原因だが、その造船技術は後の戦艦大和にも生かされた。
  • 珍しい鳥羽城を作り、信長と共に戦った。 海の大名。
  • 鳥羽市は九鬼水軍の町、造船や、港町として今も船に関わる土地です。
  • 九鬼の名は残っている様子ですが、調べると、胡麻油のお店に辿り着きます。
  • 九鬼は鳥羽湾を舞台に活躍した戦国の水軍武将。
  • 鳥羽や英虞湾の入り組んだリアス式海岸を隠れ蓑に活躍した水軍の将
  • 志摩国にあった、いくつもの水軍を一つに束ね、最後には村上・毛利・松浦水軍までも取り込んだ水軍の総大将。
  • 信長の信頼厚く、秀吉・家康とも共に戦国の世を渡った九鬼家。幕府崩壊ともに人知れず消えた。
  • 信長により、登りつめた水軍の将。地方の小さな水軍から日本水軍の総大将と言われるほどになった謎多き九鬼の一族。
  • 毛利に敗退した九鬼は、信長の逆鱗に触れ次の決戦を急がされた。そこで嘉隆は、織田方の力の限りを結集し、軍艦・阿武丸(あたけまる)の建造に総力を入れた。陸からは羽柴秀吉の軍勢の援護を受け、さながら日露海戦の旅順攻囲戦の様相。火力・防護力を高めた巨艦で小舟による機動力を売りにした村上水軍に立ち向かう事になる。
  • 歴史に残る日本初の鉄鋼船、技術の粋を結集させた新たな建造技術をもたらした。重く機動力の劣る弱点を克服させるこまかな改良。 水軍の将、九鬼は戦を重ねる度に各造船を競わせた。
  • 生まれた所から、なぜ鳥羽に移ったのか。 これも、信長との関係なのか不思議。
  • 鉄甲船は、炮烙火矢や鉄炮の攻撃をかわすためだけに鉄板張だったのではない。3門の大砲が備え付けられていたと記されているように、軍船を破壊しうる艦載砲が備え付けられていたのである。 この段階になると、鍛え抜いた海賊衆個人の戦闘能力よりも、複数の艦載砲や大量の火縄銃を装備した大型軍船安宅船を駆使する軍事力と、それを支える資本力が不可欠になってくる。従来の関船や小早を巧みに操って敵船に近づき、炮烙火矢などを飛ばして焼き沈める、あるいは敵船に乗り移って切り結ぶことを得意とした海賊大名の時代は、終焉を迎えたのである。
  • 天下統一戦から朝鮮出兵へと続く大規模戦争の時代、日本を代表する九鬼・村上両水軍には厳しい試練が待っていたのである。戦いに疲弊し、多くの犠牲を出し、海からは遠く離れた山間に生きながらえることになったのである。
  • 鬼というのは鬼道とも言われる修験道に由来していて、その九番目の拠点道場があった場所という説が有力です。 ... 鎌倉から室町時代にかけて、新宮から始まって九番目の修験道場
  • “九鬼”は江戸時代頃より一般に“クキ”と通称されているが、本来は“クカミ”と称した。
  • 鉄甲船の建造には莫大な資金が必要だったが、織田信長も鉄甲船建造に同意し、堺の代官・松井友閑に対し「九鬼兵糧」と称し月毎に九鬼嘉隆に支給を命じ、間に合わなかったら、織田信長の直轄領である平野から立て替えてでも「九鬼がこと欠かざるように奔走せよ。」と命じた。
  • 豊臣秀吉は海賊禁止令三ヶ条を出し、海賊行為や海上交通の支配を独自に行う事を禁じたが、鳥羽湾の通行支配権だけは九鬼氏に認めていたが、結果的に海上戦闘を得意とする村上水軍などは勢力を弱め全体的には日本の水軍力が低下。
  • 九鬼嘉隆が総員9000名を指揮する水軍総大将に命ぜられる。豊臣秀吉より金団扇の馬印と茜色の吹貫を賜ったとも言われる。
  • 天下統一戦から朝鮮出兵へと続く大規模戦争の時代、日本を代表する九鬼・村上両水軍には厳しい試練が待っていたのである。戦いに疲弊し、多くの犠牲を出し、海からは遠く離れた山間に生きながらえることになったのである。
  • 九鬼嘉隆と加藤嘉明の水軍は、安骨浦で朝鮮水軍李舜臣と戦闘し大敗。 なお、九鬼嘉隆は四官という朝鮮人6人を捕虜にして、鳥羽に連れ帰っており、今も子孫が残ると言う。
  • 九鬼は豊臣秀吉が死去すると朝鮮からも撤退。九州には赴いたが朝鮮出兵を免れた徳川家康は兵力・経済力も温存でき、豊臣政権勢力と対立して行く。  ちなみに、日本水軍をさんざん苦しめた李舜臣はその後も日本の水軍を果敢に撃退していた。
  • 豊臣秀吉亡き後、伊勢・岩出城に入った稲葉道通が木材を大阪方面に海上輸送する際、九鬼氏に「通航税」を払うのを拒否。 稲葉道通は九鬼嘉隆が朝鮮出兵した際の論功行賞においても、豊臣秀吉が九鬼嘉隆に恩賞を与えようとした際に反対して人物である。 九鬼嘉隆は徳川家康に、豊臣秀吉の時代から伊勢湾の通航税徴収の特権は九鬼氏が得ているものと訴え出たが、徳川家康はこれを拒否。 ついに、水軍の役割として重要な通航税が鳥羽水軍からも奪われた。以後、九鬼嘉隆は徳川家康に反感を抱く。
  • 九鬼家の家紋は丸の周りに同じ丸を六つ並べて配置する七曜紋、北斗七星を表す。
  • 合気道は九鬼神流と九鬼神傳の古神道の教えを元に作られた武術
  • 熊野本宮大社の宮司さんの名前も九鬼だと知った。 それから、九鬼という名前に興味がわいて、そこから九鬼文書(クカミモンジョ)と言うモノの存在を知る。 鬼をカミと読ませることに不思議さと、熊野本宮大社の宮司さんの名前が九鬼というところに何かの縁を感じた。 因みに、三木は本来、三鬼と書くのが正しく、熊野古道の伊勢路には一鬼から十鬼まで縁の地名があるのだという。
  • 「九鬼文書」には 『「くかみもんじょ」と読みます。ご存じのように綾部九鬼家に伝わるものであり、古史のみでなく、たいへん広い範囲の内容を含んでいます。超古代史の中では、信憑性の比較的高そうな文書のひとつです。一部古代文字の春日文字で書かれた部分があるようです。伝説では、天児屋根命が天孫降臨の頃(180万年前)に書いたものを奈良時代に藤原不比等が書き直したといわれます。
  • 「九鬼古文書」は記紀至上説を硬く信じる学者たちにとっては危険な存在と捉えられた”とある。
  • 九鬼水軍の転機となってしまったのが慶長五年(1600)の関ヶ原合戦。 関ヶ原合戦、父・嘉隆は西軍、家督を継いでいた守隆は東軍、嘉隆は敗れて自刃。 その後、徳川幕府から分割相続を命じられ、 隆季は丹波綾部(現・京都府)二万石。隆久は摂津三田(現・兵庫県)三万六千石に転封となってしまいます。この二ヵ所は内陸部で海に面しておらず、このときより九鬼水軍は、水軍としての歴史に幕を閉じました。 しかしその後、隆久の三田藩では、水軍の誇りを忘れないために、城の前に大きな池を作り、軍船を浮かる伝統行事がうまれました。
  • 鬼というのは鬼道とも言われる修験道に由来していて、その九番目の拠点道場があった場所という説が有力です。 ... 鎌倉から室町時代にかけて、新宮から始まって九番目の修験道場
  • 秀吉は農民から天下人となりましたが、九鬼もまた同じく一田舎水軍から水軍総大将となりました。信長亡き後、家康始め他の大名に目障りな存在となり、影を潜めてしまいました。
  • 信長・秀吉有っての九鬼でしたが、家康の時代となると、かろうじて東軍に味方した子供達は生き延びたものの、鳥羽を離され、その力も削ぎ落とされました。父、嘉隆は信長・秀吉への忠義心から自害し、幕を下ろしました。
  • 九鬼が志摩半島で力を増すと、九鬼氏の台頭に他の勢力が黙って見ているわけはありません。永禄8(1565)年には英虞郡の水軍が急襲して来ました。今度は九鬼水軍が2つに分割され、九鬼側はなす術なく敗退し、嘉隆は浄隆を守りながら朝熊山に逃亡しました。そして志摩国から三河国へ向かうことになりました。そこで信長と出会い、水軍の総大将にまで上り詰めるきっかけとなったのです。
  • 信長、秀吉とともに天に登った人物。秀吉無き後も、水軍は他に有らず。 家康の水軍部隊となる。かつての毛利・村上水軍、松浦水軍は秀吉により解体され九鬼のみが許されていたので有る。しかし、家康は水軍が力を持つことを良しとせず、また鎖国政策も有り弱体化。ついには海から遠く離れた内陸に移されるに至る。
  • 鳥羽城、それは平安時代に橘氏が領し,16世紀後半に九鬼嘉隆が城主になった以後は九鬼水軍の拠点になった水軍城。
  • 初めて、日の丸を掲げた軍艦で朝鮮水軍に立ち向かった歴史的人物。鉄の巨艦に強力な大砲を備え、海の要塞を作り上げた人物。さながら太平洋戦争の戦艦大和、違いは動力源が人なだけ。速力は全く出ないものの、凄まじい火力と防御で朝鮮水軍を蹴散らした。
  • 織田信長 <毛利め、やりよるの・・! 嘉隆よ、毛利に対抗出来る燃えない船を造るのじゃ! 今度敗退する時あらば、お主の命もないぞ!>
  • 第二次木津川口の戦いでは、日本初の鉄鋼戦艦登場。毛利(村上)水軍を撃破するため、巨大戦艦大和の様相。それは空前絶後の威容を誇る、船体を鉄で覆った巨大戦艦。信長の命を受け出撃する。
  • 九鬼の本拠地、鳥羽は今もかつての志摩水軍の面影を残し、水軍の訓練を脈々と受け継ぐ鳥羽商船学校が設立された。
  • 九鬼水軍の伝統を後世に伝える鳥羽商船学校。
  • 信長と共に、身分・出自に拘らず、実力主義を貫いた海の信長と言われた九鬼。朝廷をも恐れずいたが、時代の流れの中で、表舞台からその存在を消した。
  • 伊勢志摩半島の覇者となるも、瀬戸内の覇者・村上に惨敗し敗退する。
  • 蝦夷の将の亡骸埋めた岩手県「鬼死骸村」が鬼のルーツです。 岩手県南部にかつて、鬼死骸という名の村があった。自治体としては明治時代に消滅したが、その地名入りの電信柱はいまも残り、バス停名も2000年頃までは現役だった。
  • 信長勢の九鬼水軍は、大きな櫓を乗せた超大型安宅船・約10艘を中心に中型の武者船・300艘を左右に広く配置し、小早船集団の村上水軍に斬り込んだものの、機動性に欠け敗退する。
  • 九鬼は豊臣秀吉が死去すると朝鮮からも撤退。そして九州には赴いたが朝鮮出兵を免れた徳川家康は兵力・経済力も温存でき、力を落とした豊臣政権勢力と対立して行く。ちなみに、日本水軍をさんざん苦しめた李舜臣は朝鮮征伐の戦いの後も日本の水軍や廻船を見つけると果敢に攻撃し、物資を略奪していた。
  • 毛利・村上水軍との戦いに苦戦するが、信長の前にあっては秀吉・家康とて、借りて来た猫であるから命令は命を掛けても絶対で有る。
  • かつて軍船の漕ぎ手は奴隷身分とされていたが、九鬼はその最下層身分にも一定の地位を与えて士気を高めた。信長と共に身分に拘らない実力主義者であった事が水軍を大きくしたのでしょう。
  • 九鬼は海賊の親分イメージから怖いと思われがちだが、弱い立場の者に対しては寛大であったと見ることもできる。自分の間違いが明らかになった場合には素直に認めて反省し、忠義を尽くした者に対しては身分の上下に関係なく最大限の礼を尽くした。身分に拘らず、庶民とも分け隔てなく付き合い、仲が良かった様子が、数々の文献に残されている。海の信長と呼ばれ、信長とよく似ている性格からも信長との絆が深かったひとつの理由でしょう。

【名字由来教えてください】

九鬼の由来についてご存知の方がいらっしゃいましたら教えていただけると助かります。よろしくお願いいたします。
「九鬼」さんの由来やルーツ、一族の伝承や秘話等、この苗字に関するさまざまな逸話を教えてください。
削除パス
※削除パスを指定しないと削除ができなくなります。

九鬼姓について由来や字の意味、他の読み方、画数、ローマ字表記、などいろいろな情報を掲載しています。

他の苗字の全国の分布を調べる

他に調べたい苗字があれば入力して検索してください。指定した名字の方が日本全国にどれくらいいるか、都道府県別の世帯数一覧を表示します。 名字のルーツや全国への広がりや分布状況の参考にしてください。 ※あくまで参考値であり保証するものではありません。
苗字

同じ名字の人と交流する

同じ名字の人が集うページを設置しております。同姓の方と交流してみてください。

愛知県の学校

姉妹サイト『思い出こみゅ』のご紹介。『思い出こみゅ』ではあなたの出身の学校同窓生コミュニティを運営しています。

~姉妹サイトのご紹介~

思い出こみゅ

愛知県の小学校検索

愛知県の中学校検索

愛知県の高校検索

愛知県の大学検索

愛知県の幼稚園/保育園/こども園検索



ページの先頭へ