佐藤さんが多い理由

日本人の苗字のうち最も多いのが言わずと知れた「佐藤」さん。その佐藤ですが由来をご存知ですか?また佐藤という姓は多いわりに、歴史の教科書ではあまり見かけない気がしませんか? そんな佐藤の疑問について解説します。

佐藤 ルーツ

佐藤姓の起源にはいくつかあるようです。有名なものから順にみていきましょう。

左衛門尉説

藤原公清を起源

最も有名な起源は平安時代中期、当時最も栄えていた藤原一族の藤原秀郷(ひでさと)子孫六世孫にあたる藤原公清という方がおり、その公清さんは左衛門尉(さえもんのじょう)官位に任命されていました。 現在は人を苗字で呼ぶことが普通ですが、中世の日本では名字はそれほど多くなく、したがって名字で人を呼ぶことはそれほどありませんでした。 そのため職業をつけて「大工のXXさん」と読んだりお店の名前「銭屋のXXさん」などと呼ぶことが多かったと言います。 そうした背景もあり、公清さんも官職である「左衛門尉の藤原」と呼ばれていました。

佐藤となった由来

こうした官位官職は世襲されることが多く、公清さんの子息も「左衛門尉さんところの長男」のように呼ばれ、大人になればまた「左衛門尉の藤原」と呼ばれるようになりました。 「左衛門尉」という役職は歴史を見ると「左衛門」、「左門」等と呼ばれることも多く、また昔は「左の字」のように姓名のうち一字をとって人を呼ぶこともありました。 これが徐々に省略されて「左衛門の藤原」⇒「左門の藤原」⇒「左門の藤」⇒「左藤」⇒「佐藤」と徐々に変化していったものと思われます。

下野国佐野の守説

佐野市

佐野市

藤原秀郷の子孫

先ほども出た藤原秀郷が平将門討伐で活躍し、関東一円に勢力を拡大したのち、その子孫が下野国佐野(現在の栃木県佐野市)に移り住みました。 仕事のように、当時は住んでいる地域を冠して名前を呼ぶことも多く、佐野という地名を取って「佐野の藤原氏」と呼ばれていました。 これが「佐野の藤原」⇒「佐野藤原氏」⇒「佐藤」と省略されていったと考えられます。

佐渡の守説

左衛門尉説の似ていますが、各地域を管轄していた役職に「XXの守(かみ)」という官職がありました。その中の「佐渡の守」という官職についた藤原さんが「佐藤」と名乗ったという説です。 確かに新潟県で最も多い名字は「佐藤」となっており、新潟県柏崎市にも佐藤とつく地名があります。 実はこの佐藤という名前は人数のわりに地名にはそれほど用いられていません。

補佐役説

藤原家が栄えたころ、朝廷の官職では最も位の高い地位に次ぐ2番目の役割を「佐(すけ)」と言った。この「佐」を代々努めていた藤原氏が「佐藤」と名乗ったというのも由来の一つらしい。

起源は藤原秀郷の子孫が最有力

藤原秀郷

藤原秀郷
左衛門尉にしても下野国佐野のにしてもいずれも「藤原秀郷の子孫」が起源であり、佐藤姓はこの人が源流でありルーツであるという説が最も有力と言えます。 ちなみに起源となる人物にはやはり伝説があります。

ムカデ退治の伝説

藤原秀郷が有名になったのは歴史的には平将門を討伐し関東一円に勢力を拡大したことですが、そうなる前に武勇伝が生まれ、有名になったために平将門討伐という大任を拝したのです。 余談ですがその伝説とは「ムカデ退治の伝説」。 簡単に説明すると、武勇を見初められた藤原秀郷が、龍神の娘にムカデ退治を依頼され見事やっつけて、米が尽きない米俵、切っても減らない反物、食べ物があふれてくる鍋、美しい音色の釣鐘などの宝物をもらうお話です。

全国の佐藤さんの起源

北海道の佐藤家

寿都の旧家。

山形県の佐藤家

東村山郡山野辺村(現在の山形県東村山郡山辺町)で米沢屋を号した豪商。

新潟県の佐藤家

佐渡の守の藤原氏の末裔。 源義経の家臣で四天王の1人佐藤忠信の子孫。佐藤栄作もその一人といわれる。

東京都の佐藤家

甲州街道の日野宿(現在の東京都日野市)で本陣を務めた。

栃木県の佐藤家

藤原秀郷の子孫、佐野の藤原氏の末裔。

静岡県の佐藤家

東海道の江尻宿(現在の静岡県清水区)の豪商で、江戸時代の初頭に伊勢国松坂(現在の三重県松坂市)から移り住んだと言われる。

岐阜県の佐藤家

旗本の伊深佐藤家。藤原姓で、佐藤継信の末裔と言われる。戦国時代、加治田城にいた佐藤紀伊守忠能の子孫。

京都県の佐藤家

西行法師庵

西行法師庵

佐藤継信と忠信の塚

佐藤継信と忠信の塚
佐藤継信の末裔。京都市東山区馬町通東大路東入北側常盤町には佐藤継信と忠信の塚もある。また京都には西行の名で有名な佐藤義清が住んでいたとされる西行法師庵の跡もある。

三重県の佐藤家

伊勢外宮の宮方。この「車輪紋」を家紋とする伊勢佐藤氏ので伊勢信仰の広がりとともに、神官・御師として佐藤氏が諸国に渡った。

佐藤が多い理由

日本人が大好きな織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が活躍した戦国時代。この安土桃山時代ともいわれる時代に活躍した佐藤姓の人たちにはどんな人がいたのでしょうか。 じつはこの時代大名は数十から徳川幕府時代には三百有余藩(実際には270前後)などとも言われ、相当な数の大名がありましたが、その中に「佐藤」という大名は皆無です。 しかしこの大名に佐藤がいないという事実こそ佐藤が全国に広まったワケなのです。 鎌倉期から江戸期まで大名に佐藤氏はなく、主要な公家や神官にすら佐藤氏はありません。当時主君と同じ名字を名乗ることは一族を除いて許されえていなかったため、他の名字に比べ名乗りやすく、広まり易かったと言えるようです。

戦国武将 佐藤

佐藤為信

さとう ためのぶ(1542年~1591年) 相馬氏の家臣。佐藤好信の嫡男。 小斎城代として重用されたが、父・好信が讒言により減封され、果ては憤死に追い込まれたことを恨みに思い、讒言した家臣を討って相馬氏から伊達氏に寝返った。 その際伊達氏の一族に迎え入れられている。佐沼合戦における佐沼城攻略の際に、兜の八幡座を鉄砲にて射抜かれ討死。

佐藤好信

さとう よしのぶ(生没不明)相馬家臣。佐藤家はもと岩城家臣であったが、好信の代に相馬家に属す。軍奉行を務めたが、郡左馬助の讒言により領地を没収され、失意のうちに病死した。

佐藤 清信

さとう きよのぶ(?~1563年) 戦国時代、安土桃山時代の武将。佐藤道信の子で、秀信(異本佐藤系図)とも伝わる。通称六左衛門尉、将監。初代、美濃国鉈尾山(なたおやま)城主。子女に佐藤秀方、遠藤慶胤室。 美濃国の守護大名土岐氏および守護代斎藤氏属して、天文9年(1540年)8月にそれまでの居城藤城を拡張し、鉈尾山城を築いた。 織田信長の美濃侵攻の時に降伏し、以後臣従した。墓所は、清泰寺(岐阜県美濃市)。法名は育山宗隆。

佐藤 秀信

さとう ひでのぶ(?~1570年) 六左衛門尉。いは「正秋」「清信」などが伝わっている。武儀郡上有知村蛇尾山城主として斎藤氏に仕える(佐藤金森由緒書)。 永禄六年(1563)、保寧寺(後の以安寺)を建てるという。信長に降ったのは斎藤氏没落の時か。 息男秀方も「六左衛門」を称するので、その後の父と子との事績がとかく混同しやすい。 同十二年八月の大河内城攻め、元亀元年(1570)六月の小谷城攻めに従ったのは、子の秀方の方であろうか(池田本)。 元亀元年七月二十七日没という(常在寺記録)。

佐藤 家紋

車輪紋

車輪紋

佐藤家紋
車輪紋は源氏車ともいい、佐藤姓では平安時代末期の武将で、源義経四天王の1人佐藤忠信を祖とするといわれる。 源氏車は六車と八車があり、佐藤家の菩提寺と言われる医王寺(真言宗豊山派)には八車の家紋が残されているようで、八車が本流と思われます。 ちなみにこの忠信は奥州にいた義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原秀衡の命により兄・継信と共に義経に随行。 義経の郎党として平家追討軍に加わった。義経と共に没落し最期は京都に潜伏中に襲われ壮絶な自害を遂げています。 また岸信介、佐藤栄作らがその末裔と称している。

上がり藤

上がり藤紋

佐藤家紋上がり藤
佐藤姓のもととなる藤原氏の家紋は下り藤。それに対応した家紋と言えます。 藤原家の勢力が強くなると、分家の広がりも大きくなり、本家と分家を区別するために「上がり藤」の家紋が造られました。 藤原家の下り藤は「下がる」という点に関して縁起が悪いという見方もあり、そこから上がり藤の家紋が生まれたという説もあります。 いずれにしても当時隆盛を誇った藤原一族を背景とした由緒ある家紋であることは間違いありません。

山桜

山桜紋

佐藤家紋山桜

水車紋

佐藤家紋水車
佐藤姓ではないですが、女優の吉永小百合氏は山桜をあしらった家紋のようです。

水車

その他水車をつかった佐藤家の家紋もあるようですが、由来は定かではありません。

有名な佐藤さん

政治家 佐藤さん

佐藤栄作さん:あまりにも有名な政治家。第61代~63代の内閣総理大臣に就任し、アジアで初めてノーベル平和賞を受賞した。

俳優 佐藤さん

佐藤浩市さん:三國連太郎の息子で日本を代表する俳優。 佐藤健さん:埼玉県岩槻市出身の俳優。「仮面ライダー電王」「龍馬伝」「るろうに剣心」など。 佐藤隆太さん:東京都目黒区出身。「海猿」「ROOKIES」など。

作家 佐藤さん

佐藤春夫:小説「戦いすんで日が暮れて」で直木賞を受賞。 佐藤愛子:小説「西班牙犬の家」「田園の憂鬱」など。文化勲章、贈従三位。

スポーツ選手 佐藤さん

佐藤和弘さん:パンチ佐藤。神奈川県出身の元プロ野球選手。 佐藤琢磨さん:元F1レーサー

本サイトに寄せられたコメント紹介

  • 「藤」原家を補「佐」するから「佐藤」という苗字になったのでは
  • 日本の頂点に位置する天皇家に最も近い五摂家をルーツとする最高支配層の家格。由緒ある家柄です。
  • 藤原氏
  • 中世の官位「佐渡守」の役職に就いた藤原さんが佐藤を名乗ったというルーツもある。
  • 藤原一族の末裔で有る。
  • 元来、日本列島には縄文人(倭人・毛人)が居住していたが、佐藤を始め、渡来貴族達に祖弥生時代以降から徐々に阻害されていったとされる。(現在の日本政府ではアイヌ・琉球民族などを日本の先住民族としている。) 揚子江流域から朝鮮半島などを経由して伝わった稲(水稲)作に始まり、後には漢字、仏教や寺院建築技術などを日本に持ち込み、古代日本における文化・政権形成に大きな役割を演じたと考えられている。 日本から主に朝鮮半島に移住した倭人(倭族・大和民族)であっても、日本に亡命・帰還した際は渡来人と呼称されている。 また飛鳥時代には百済の滅亡により亡命貴族が日本を頼って渡来した。中でも最後の百済王義慈王の王子の禅広は、持統天皇より百済王(くだらのこにきし)の氏姓を賜り、百済系氏族の代表的な存在となった。
  • 平安時代頃の藤原秀郷という人の子孫に「左衛門尉」と呼ばれていた藤原公清という人がいてその人がルーツという説もある。左衛門尉の「左」と「藤」から佐藤という名字になった。
  • 佐藤栞里佐藤健
  • 「どういうこと」 「佐藤さんという名字は〈ゆかり〉と〈あやかり〉で増えた名字だからね。血のつながりはなくても、精神的にはつながっているのだよ」 「そのゆかりとかってなに?」 「ゆかりとは、有名な豪族にゆかりがあるというようなことだ。あやかりとは、英雄豪傑にあこがれる気持ちだよ。佐藤さんはね、奥州藤原氏にゆかりのある家が、佐藤兄弟にあやかって名乗った名字なんだ」 「奥州藤原氏って、世界遺産になった金色堂を建てた豪族だろう」 「そう。平安後期の奥州(東北)を支配していた名族だよ。海外とも貿易をし、莫大な財宝を持っていた。当然ながら奥州に住んでいた武士たちはみんなこの藤原氏に従っていた。ところが文治五年(一一八九)鎌倉幕府を開いた源頼朝によって奥州藤原氏は滅ぼされてしまったんだ。このとき散り散りになった家臣たちは、のちに佐藤と名乗るようになるんだ」 「どうして佐藤と名乗ったの?」 「それは佐藤という名字が奥州藤原氏の家臣の代名詞だったからさ。そこには源義経に仕えた佐藤兄弟が深く関係している。奥州に来た義経は当主藤原秀衡の勧めで佐藤兄弟を家臣にした。この兄弟はよく尽くし、兄の継信は義経の身代わりなって討死したといい、弟の忠信は京で自害した。義経は東北では最大のヒーローだが、その四天王に数えられた佐藤兄弟も大人気だった。軍記本で読まれ、芝居で演じられ、東北人にとって佐藤兄弟は義経以上に親しみを感じる存在だったわけだ」 「その佐藤兄弟にあやかったのね」 「その通り。佐藤さんのご先祖は佐藤という名字を名乗ることによって、東北人の誇りである奥州藤原氏や源義経と精神的につながることができたんだ。それが東北で佐藤さんが爆発的に増えた理由だろう」 「奥州藤原氏は滅び、義経は悲劇的な死をとげたけど、その魂は佐藤さんに受け継がれていったのね。佐藤さんってたくさんいるからありふれた名字だと思っている人が多いかも知れないけど、こんな話を聞いたら歴史ロマンを感じちゃうわね」 「佐藤さんが奥州藤原氏や源義経とつながっていることは、家紋にもあらわれているよ」 「どんな家紋を使っているの?」 「まずは下り藤をよく使う
  • 藤原家が栄えたころ、朝廷の官職では最も位の高い地位に次ぐ2番目の役割を「佐」と言った。この「佐」を代々努めていた藤原氏が「佐藤」と名乗ったというのが由来の一つらしい。
  • 当時の武士にとってはあこがれの的でもあった宮殿を護衛する総責任者である左衛門尉(さえもんのじょう)であった藤原氏が佐藤と言われるようになった。
  • 名字研究家の森岡浩によると、藤という字を「とう」と読む名字は基本的に藤原一族の子孫で、平安時代に藤原一族が左衛門尉という役職に就いたことから「左藤」と名乗ったのが始まりだという。平安時代に都に君臨していた藤原家。その流れをくむ藤原家系の一族として「佐藤」は誕生した。一族たちは中央政府の要職に就くために激しく競い合っていた。そのポスト争いに敗れ、都では埋もれた存在となってしまった「佐藤」は東北の地方官僚として生きる道を選択。すると、「佐藤」は東北で中央政府にパイプを持つ名家として大きな影響力を持つようになった。森岡浩によると、佐藤一族は藤原全体から見ると分家の分家の分家ぐらいで、本家の方が早く出世するため、地方官僚になればいきなりトップに近いところに立てたのだという。佐藤の全国分布図を見てみると、今も東北5県が1位であることがわかった。一方、徳島と大分も1位だったことについて森岡は、「徳島県は田口一族がいたんですけど、源平合戦で平家の味方をして負けて領地を取られてしまう。その空いた領地に佐藤一族が入ったんです。大分県も緒方一族がいて、源平合戦では源氏についたんですけど、その後に義経側についちゃうんです。同じように領地を取られて、そこに東日本からドッと(佐藤一族が)入ってきた」と解説した。
  • 佐藤がここまで広まった理由は戦国大名に「佐藤」姓は無く、武将でも相馬氏や美濃斎藤氏の家臣として活躍した人が僅かにいる程度。当時主君と同じ名字を名乗ることは一族を除いて許されえていなかったため、他の名字に比べ名乗りやすく、広まり易かったと言える。
  • 佐藤も、日本の皇室と同じく国民から敬われ、日本は素晴らしいと言われるまでの国にした一族です。
  • 大都市を抱える都道府県を除けば、東北地方(宮城県、福島県、秋田県、山形県など)に佐藤姓は多くなっている。その理由は、藤原秀郷の系統からでた公輔の子師清が出羽守の任期後に岩代国信夫郡佐場野邑に在住、さらに曾孫にあたる師信は保延六年(1140)信夫庄司となり、子孫が奥羽地方に繁栄したため。ちなみにその子孫にあたる佐藤継信、忠信兄弟が源義経に仕えて活躍したことは有名。
  • 戦後に鹿児島県奄美地方での一字姓「里」が改姓され、佐藤になった。音読みで「リ」とも読めることから、子孫が朝鮮人と間違われないようにとのこと。

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