菊地さんの徳島県分布
このページは菊地さんが徳島県に何人くらいいるか市区町村毎のおおよその世帯数を表したものです。
菊地さんの分布状況の参考にしてください。
※あくまで参考値であり保証するものではありません。
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※本サイトではプライバシー保護のため人口が少ない場合は[ほとんどいない]、[0~10人前後]等と表現させていただいております。各市区町村の合計と[徳島県の推定人口]は一致しません。
徳島県の推定人口 | 十数人~100人程度 | 徳島県の推定順位 | 1800位 |
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菊地さんの由来
- 私菊地は、秋田県の日本海側の北端出身です。町内に遠縁の菊地がかなり居て、伝承では小野さん、武田さん、門脇さん、後藤さんと一緒に逃げて来て定住したとのことです。一体何から逃げて来たか?は分かりません。さて、菊地の疑問は、①熊本菊池が先祖とすれば、何故関東や東北に移住したか?②なぜ?菊池➡菊地に変えなければならなかったのか?➂なぜ、北海道、東北、関東に拡散移住したか?の3点に尽きると思います。 これらの疑問は、何かよっぽど大きな事件や出来事がないと起こりえないことだと考えます。答えはひとつではないでしょうけど、主なる原因はあると思います。 まず①の主原因は、源頼朝の奥州藤原征伐に熊本から兵として動員されたこと。頼朝家臣である関東葛西氏に従軍して、東東北に定住したものでしょう。 ②は、菊池も世代を経るにつれ、武士を辞めて農業や漁業をする者が出現したこと。菊池さんに”池の菊池は武士の出。土の菊地は百姓の出”と伝承されているとからかわれたことがありますが、あながち嘘ではないと思います。彼は岩手県出身でした。有名武将を調べてもすべて池の菊池で、土の菊地はいません。従って、 武士の菊池と百姓の菊池を差別するための何らかの圧力が方々で起こったものだと考えています。 ➂の主たる原因は、初め岩手・宮城あたりの菊地がニシンを追って東北北海道各地に移ったと考えました。勿論それもあるでしょうが原因としては小規模です。 やはり2011年の東日本大震災。これ以上の規模の地震・津波が百年~3百年ごとに発生し、東北の太平洋沿岸各地は、その都度壊滅。大勢の人がここを離れて各地に移住し広がったものでしょう。私の祖先も恐らく津波被害からの避難民だったのです。因みに家紋は三つ柏。 これは、葛西氏や葛西氏の親戚江刺氏の系統です。 以上私菊地の考えです。
- 菊地一族の者です。自分のルーツを探していた所、ほぼ確定できました。秋田県東成瀬村に記念館がある「菊地慶治」氏の本家は、奥州藤原家の生き残りで 、山奥へ逃げ、またぎをしながら生き延び、後に蝦夷と馬の交易を行っていました。子孫が移動したことから東北と北海道に菊地の姓が増えたようです。資料館に資料があり、本家には家系図があります。また、菊地家本家の家紋は天皇家の紋章でもある「丸に抱き菊の葉」で、明治4年以後、皇族でしか使用できないので間違いないと思われます。 ちなみに九州の「菊池」も九州の藤原家から変化していると、NHKの名前の番組でやっていました。 北の菊地、西の菊池、共に藤原一族由来かと推測しています。
- 熊本の菊池です。我が家のルーツは茨城です。佐竹家の家臣で殿様が秋田にところがえされたおり、一緒についていき湯沢に移り住んだ記録があります。そして祖母が熊本より婿をもらい、熊本に来たようです。
- 菊池は南北朝時代、南朝に味方し、御存知の通り南朝が負けましたので、九州に居られなくなり、太平洋コースや日本海コースなどで、東北地方や北海道など、北朝の追及の手の届かない遠くの地に逃げて行ったものと思われます。この時代南朝に味方した武士たちは概ね似たような経過を辿っています。農業などをしないと生きられませんから、必然的に農業をするようになります。その中から菊池から菊地に替える人たちが出て来たと思われます。九州から遠く離れると、名前を少し替えるのに抵抗がなくなるのかなと思います。現代でも全般的に見て、東日本は菊地が多く、九州に近い西日本は菊池が多いという統計データが見られます。
- 元武士なので土に也海賊やったり山賊やったり山伏やったりして散ったんだべ
【名字由来教えてください】
菊地の由来についてご存知の方がいらっしゃいましたら教えていただけると助かります。よろしくお願いいたします。菊地姓について由来や字の意味、他の読み方、画数、ローマ字表記、などいろいろな情報を掲載しています。