三田地さんの掲示板

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表記が後れたかも知れませんが、春日社古墳の発掘は1990年代に実施されました。地下鉄駅周辺エリアの土地区画整理事業に伴う発掘作業でした。その後、この画一的なデザインの革盾は随時列島各地から発見されたものの、畿内中枢部である古市、百舌鳥、桜塚古墳群での明らかな分布集中が見られることがわかりました。すなわち、制作配布がこれらの古墳造営者集団の掌中にあったと考えられるとの見解です。
(2024/02/24 16:33:19:三浦屋)

再び、春日社古墳の革盾の話題に戻りたいと思いますが、あの斬新なデザインや異なる構造の皮盾はまったく唐突に出現しており、それは新たな政権の確立を物語っている事にもなります。すなわち新しく創出した革盾を配布することで改たな政治的関係や同盟関係または階層関係をかたちづくったとの見解を専門家は示しています。
(2024/02/24 08:52:34:三浦屋)

九州の磐井や岩手県磐井郡にしても語源はどうやら『岩』からきていると考えられます。すなわち御神体になるような山上の岩であり巨岩です。仏教が列島に渡ってくる前は日本では自然の滝、山、巨石、大木などを敬い信仰の対象としていました。磐井郡の場合は須川岳(栗駒山)が神様として祀られていたようです。宮城県北では古くから栗駒山がよく祀られていました。大崎地方に点在している『山神社』がそうです。岩手県では須川岳と呼ばれ、宮城県では栗駒山と一般的に呼ばれていますが同じ山です。 
(2024/02/17 20:28:14:三浦屋)

ヤマト王権に滅ぼされた筑紫国造磐井の墓と云われている岩戸山古墳があります。この古墳石室もユーチューブで見ることができますが、やはりカラフルな三角文様がふんだんに使われています。これをみると王権独特の文様ではないようです。王権の存在をも危ういものにした磐井の大勢力ですが、気になることがあります。岩手県の磐井郡は何からとった磐井なのでしょうか。また、岩井という姓や磐井川も存在します。
(2024/02/11 19:57:04:三浦屋)

革盾の特徴はひとくちに言うと、ネイティブアメリカンが持つようなモダンなデザインです。ヤマト王権からの下賜品とはいえ古墳時代になぜこのデザインだったのか不思議です。赤と黒の鋸歯文様が漆で鮮やかに彩色されたものです。アンティークでもよさそうな色調です。大きさは、上幅60センチ長さ120センチ下幅72センチあります。鋸歯文様は福島県浜通りの古墳壁画にもある文様です。王権軍野戦中の兵舎であるテント群の情景を連想させます。それほど大規模な戦さだったと想像されます。また、盾の制作と配布は古墳造営集団が管理していたとも云われます。
(2024/02/10 08:52:17:三浦屋)

大野田古墳群のなかで最大の円墳は直径46m、春日社古墳です。発掘の結果、大野田古墳群内はもとより仙台市内でも最大の円墳であることがわかりました。元は、小社(春日社)と高まりがあるだけの鎮守の森だったようです。大野田地区は昭和30年代まで西多賀小学校の学区であり水田の広がる農村地帯だったように思います。王の壇古墳も水田地帯の中から発見されています。春日社古墳の発掘で特筆すべきは、東北で初の革盾(木製枠に革を張ったもの)の発見でしょう。矛や鏃と共に墓壙の南側から見つかりました。状態のよい革盾の発見は全国でも3例目という事であり首長墓クラスの古墳に見られるのが特徴です。
(2024/02/04 17:10:02:三浦屋)

17代履中帝、21代雄略帝、26代継体帝、29代欽明帝……大まかに云うと大王家17代から29代くらいの間が倭国の激動期でした。倭軍高句麗との戦い、磐井の大乱、新羅任那の戦い、二回にわたる百済への倭軍派遣、新羅との戦いそしてついに任那の滅亡となります。当時は最果ての地であった仙台平野からも豪族たちが幾度となく派遣されたものと考えられます。
(2024/02/04 16:04:48:三浦屋)

前述の大野田地区では今のところ41基の古墳が確認されており、大野田古墳群と称しています。400年代後半から500年代中頃にかけて造営されたと考えられています。この時代は、日本はまだ倭国であり朝鮮半島を含め長期にわたり多くの戦さがあった時期です。遠見塚や雷神山のような大きい古墳ではありませんが、古墳から出土した多彩な副葬品の数は群を抜いています。ここてもヤマト王権との深い繋がりがあったことを示しております。
(2024/02/03 21:11:20:三浦屋)

仙台平野には雷神山古墳、遠見塚古墳など東北で一、ニ位を争う大型前方後円墳があり古代〜ヤマト王権から中央政権とのつながりがあった地域です。とりわけ名取市や仙台市太白区は、出羽国への分岐点となっており郡山官衙造営以前から山越えの自然道があったと思われます。それをベースに各時代で王権軍や律令軍が拡張整備してきた道です。大野田の地名は始め王ノ壇と云い、かなり大きい有力者の円墳が水田の中に半分埋もれていました。近くにはもう一つ春日社古墳があります。名取川の両岸は集落も多く経済活動も活発だったとみえ古墳の多い地域でもあります。
(2024/01/28 17:37:57:三浦屋)

白老陣屋は平野部に造られており河川を巧みに利用し防備の弱い方面は人口の堀で対応しています。内曲輪と外曲輪は高く堅固な土塁で守られています。大手に馬出しがあり搦手口を備えており櫓や物見は見当たりません。全体の築城技術は戦国期とちがい西洋思想を取り入れた感じを受けます。規模的には館、要害に次ぐ防御陣地です。陣屋というと仙台市太白区大野田元袋(現在のユニクロ付近)にあった政宗の陣屋を思い出しますが、この陣屋は再開発のため偶然に発掘されたもので公式記録書の伊達治家記録にも記載がなかったものです。一度は堀の位置など作り替えた形跡もありますが、白老陣屋よりかなり小規模な陣屋です。政宗は川遊びアユ漁を好んだらしくその為の陣屋だった節があります。付近には川守の板橋家(以前は広大な屋敷を利用してユースホステルを経営していた)が古くから居住していました。近くの名取川の渡河地点は地形上、古代飛鳥時代から道が付いており南側は柳生地区を経由して愛島古道に繋がっていた様子です。熊野堂地区の渡し場とは別であり郡山官衙への近道となっています。
(2024/01/26 23:21:50:三浦屋)

現在、仙台市泉区に三好耳鼻咽喉科が開院していますが、ここの三好彰院長が監物から5代目のご子孫だそうです。白老町には耳鼻科が無いことを聞き随分と長い間ボランティアで耳鼻科検診を続けていたそうです。何十年も前の事になりますが、まだ青葉区本町に開業していた頃私自身一度受診した記憶があります。確かこの先生だったと思います。初診でしたが、先生の方から『こんにちはっ』と声がけをされて一瞬戸惑った事を覚えています。明るく元気のある声でハキハキした先生でした。幸い症状も軽く1〜2度通院してあとは行かなかったと記憶しています。祖先の三好監物の話題や白老町のボランティアの話しはその頃に知ったのかも知れません。
(2024/01/20 22:52:04:三浦屋)

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