配流された主な国は、筑後、筑紫、日向、太宰府、伊予、讃岐、出雲、周防、播磨、和泉、摂津、近江、越前、越後、甲斐、信濃、相模、武蔵、上総、常陸、上野、下野、出羽などで強制移住で尚従わない場合は再配置がありました。 (2024/04/28 09:44:41:三浦屋) ヤマト王権や律令政府は未開発だった東北に順次城柵を築いて建国するわけですが、目的は土地(新田)開発による戸籍制定と税金徴収、一定期間の軍事訓練及び徴兵(男子)でした。たとえば、715年に坂東の富民を陸奥に1,000戸移配した記録があります。一戸は20人単位ですから20,000人を仙台平野に強制移住させたわけです。ただし、そのような記録はほんの一部と思われます。反抗した捕虜を東北に移住させたり、方針に従わない者たちを遠国へ移住させたりしました。また、一旦筑後へ移住させた者を罰としてさらに摂津へ再配流した例もあります。それらはすべて組織的に行われました。分配や移配は記録に残っているだけでも35ヶ国となっています。 (2024/04/20 16:53:00:三浦屋) 記事の訂正があります。新潟の柵造営は大化改新後すぐに実施されています。城柵設置を足がかりに阿倍比羅夫船団の大規模な威力偵察が658年に行われており、肥沃な東北全体の建郡建国を急ぎヤマト王権の兵力国力増強をより確かなものにするのが目的だと考えられます。 (2024/04/14 22:49:31:三浦屋) |