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ヤマト王権に滅ぼされた筑紫国造磐井の墓と云われている岩戸山古墳があります。この古墳石室もユーチューブで見ることができますが、やはりカラフルな三角文様がふんだんに使われています。これをみると王権独特の文様ではないようです。王権の存在をも危ういものにした磐井の大勢力ですが、気になることがあります。岩手県の磐井郡は何からとった磐井なのでしょうか。また、岩井という姓や磐井川も存在します。
(2024/02/11 19:57:00:三浦屋)
革盾の特徴はひとくちに言うと、ネイティブアメリカンが持つようなモダンなデザインです。ヤマト王権からの下賜品とはいえ古墳時代になぜこのデザインだったのか不思議です。赤と黒の鋸歯文様が漆で鮮やかに彩色されたものです。アンティークでもよさそうな色調です。大きさは、上幅60センチ長さ120センチ下幅72センチあります。鋸歯文様は福島県浜通りの古墳壁画にもある文様です。王権軍野戦中の兵舎であるテント群の情景を連想させます。それほど大規模な戦さだったと想像されます。また、盾の制作と配布は古墳造営集団が管理していたとも云われます。
(2024/02/10 08:52:00:三浦屋)
大野田古墳群のなかで最大の円墳は直径46m、春日社古墳です。発掘の結果、大野田古墳群内はもとより仙台市内でも最大の円墳であることがわかりました。元は、小社(春日社)と高まりがあるだけの鎮守の森だったようです。大野田地区は昭和30年代まで西多賀小学校の学区であり水田の広がる農村地帯だったように思います。王の壇古墳も水田地帯の中から発見されています。春日社古墳の発掘で特筆すべきは、東北で初の革盾(木製枠に革を張ったもの)の発見でしょう。矛や鏃と共に墓壙の南側から見つかりました。状態のよい革盾の発見は全国でも3例目という事であり首長墓クラスの古墳に見られるのが特徴です。
(2024/02/04 17:10:00:三浦屋)
17代履中帝、21代雄略帝、26代継体帝、29代欽明帝……大まかに云うと大王家17代から29代くらいの間が倭国の激動期でした。倭軍高句麗との戦い、磐井の大乱、新羅任那の戦い、二回にわたる百済への倭軍派遣、新羅との戦いそしてついに任那の滅亡となります。当時は最果ての地であった仙台平野からも豪族たちが幾度となく派遣されたものと考えられます。
(2024/02/04 16:04:00:三浦屋)
前述の大野田地区では今のところ41基の古墳が確認されており、大野田古墳群と称しています。400年代後半から500年代中頃にかけて造営されたと考えられています。この時代は、日本はまだ倭国であり朝鮮半島を含め長期にわたり多くの戦さがあった時期です。遠見塚や雷神山のような大きい古墳ではありませんが、古墳から出土した多彩な副葬品の数は群を抜いています。ここてもヤマト王権との深い繋がりがあったことを示しております。
(2024/02/03 21:11:00:三浦屋)
仙台平野には雷神山古墳、遠見塚古墳など東北で一、ニ位を争う大型前方後円墳があり古代〜ヤマト王権から中央政権とのつながりがあった地域です。とりわけ名取市や仙台市太白区は、出羽国への分岐点となっており郡山官衙造営以前から山越えの自然道があったと思われます。それをベースに各時代で王権軍や律令軍が拡張整備してきた道です。大野田の地名は始め王ノ壇と云い、かなり大きい有力者の円墳が水田の中に半分埋もれていました。近くにはもう一つ春日社古墳があります。名取川の両岸は集落も多く経済活動も活発だったとみえ古墳の多い地域でもあります。
(2024/01/28 17:37:00:三浦屋)
白老陣屋は平野部に造られており河川を巧みに利用し防備の弱い方面は人口の堀で対応しています。内曲輪と外曲輪は高く堅固な土塁で守られています。大手に馬出しがあり搦手口を備えており櫓や物見は見当たりません。全体の築城技術は戦国期とちがい西洋思想を取り入れた感じを受けます。規模的には館、要害に次ぐ防御陣地です。陣屋というと仙台市太白区大野田元袋(現在のユニクロ付近)にあった政宗の陣屋を思い出しますが、この陣屋は再開発のため偶然に発掘されたもので公式記録書の伊達治家記録にも記載がなかったものです。一度は堀の位置など作り替えた形跡もありますが、白老陣屋よりかなり小規模な陣屋です。政宗は川遊びアユ漁を好んだらしくその為の陣屋だった節があります。付近には川守の板橋家(以前は広大な屋敷を利用してユースホステルを経営していた)が古くから居住していました。近くの名取川の渡河地点は地形上、古代飛鳥時代から道が付いており南側は柳生地区を経由して愛島古道に繋がっていた様子です。熊野堂地区の渡し場とは別であり郡山官衙への近道となっています。
(2024/01/26 23:21:00:三浦屋)
現在、仙台市泉区に三好耳鼻咽喉科が開院していますが、ここの三好彰院長が監物から5代目のご子孫だそうです。白老町には耳鼻科が無いことを聞き随分と長い間ボランティアで耳鼻科検診を続けていたそうです。何十年も前の事になりますが、まだ青葉区本町に開業していた頃私自身一度受診した記憶があります。確かこの先生だったと思います。初診でしたが、先生の方から『こんにちはっ』と声がけをされて一瞬戸惑った事を覚えています。明るく元気のある声でハキハキした先生でした。幸い症状も軽く1〜2度通院してあとは行かなかったと記憶しています。祖先の三好監物の話題や白老町のボランティアの話しはその頃に知ったのかも知れません。
(2024/01/20 22:52:00:三浦屋)
幕府の計画では伊達藩の陣屋は当初苫小牧でしたが、藩重臣三好監物(けんもつ)が調べたところ苫小牧は湿地帯が多く陣屋立地は困難であるとして、地政学的にも優位な白老が最適であるとして再三再四幕府と論争した結果白老陣屋に決定した経緯があります。
(2024/01/20 22:16:00:三浦屋)
正確にいいますと、ロシアの南下政策に対応し幕府の命令で奥羽諸藩は要所要所に陣屋を築く事になりました。各藩兵を陣屋に常駐させ警備に当たるわけです。伊達藩は白老郡に陣屋を構築し120名の藩兵を常駐させました。ウトカンベツ川を東の外堀とし内曲輪に本陣、勘定所、兵具蔵、兵糧蔵を配し外曲輪に稽古場、長屋(兵宿舎)、馬屋を置き12年間駐屯警備しました。ただ、伊達藩の警備範囲は他の諸藩と比べて実に広範囲であり太平洋側の2/3を担当しました。この負担は伊達藩の財政圧迫のさなか非常に大きいものでした。
(2024/01/20 19:45:00:三浦屋)
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