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仙台に在る郡山官衙跡はいわゆる陸奥国府 として機能しておりました。大化改新 後、孝徳朝645〜654年のあいだに高向大夫を中心とした東国国司が陸奥に派遣され 建国の為の実情を調査しました。刈田嶺を含む奥羽山脈の国境はこのときに決定 されたと想像されます。日本の都府県郡の範囲はすべてこの頃に決められたものであり、1300年間ほとんど変化しておらず 世界的にみても稀有な事例として有名です。
(2024/08/03 16:51:00:三浦屋)
仙台に在る郡山官衙跡はいわゆる陸奥国府 として機能しておりました。大化改新 後、孝徳朝645〜654年のあいだに高向大夫を中心とした東国国司が陸奥に派遣され 建国の為の実情を調査しました。刈田嶺を含む奥羽山脈の国境はこのときに決定 されたと想像されます。日本の都府県郡の範囲はすべてこの頃に決められたものであり、1300年間ほとんど変化しておらず 世界的にみても稀有な事例として有名です。
(2024/08/03 16:48:00:三浦屋)
熊野修験がいつの頃から刈田明神で修行するようになったのかハッキリしませんが、相当古い時代から(神名帳記載以前)霊山として刈田嶺は崇め奉られていたと考えられます。郡山官衙や多賀城に詣でるときにも霊峰刈田嶺の美しい姿はよく観えます。おそらくは平安期から徐々に熊野修験が入り込み修行の山としていったはずであり御神体として吉野大峰山の蔵王権現を刈田嶺に祀るようになったと思われます。すなわち蔵王権現の祀られている山として[蔵王山]と呼ばれるようになり変化していったのでしょう。その後、熊野の後ろ盾となっていた平泉藤原氏の滅亡により東北での熊野信仰は衰退していきました。
(2024/07/27 15:20:00:三浦屋)
刈田明神は、905年延喜式神名帳に記載のある神社ですが里宮は神官と社殿を常置し 刈田嶺はその前から神体山として祭られていたと考えられます。 平安時代に入ると皇族たちも熊野信仰に感化され実際に熊野に詣でる皇族も出始めました。その勢いをかりて熊野修験たちは全国に布教活動を始めるようになりました。
(2024/07/20 09:31:00:三浦屋)
宮城と山形の県境に名峰蔵王山がありますが、宮城には式内社刈田嶺神社が座する刈田郡があります。900年代の古史料和名抄には葛太郡として表記されています。 刈田郡は養老5年(721)柴田郡から独立しており篤借、刈田、坂田、三田の四郷から成っています。刈田嶺神社(現在蔵王町宮)は特に農業保護に重きをおいて特に名神大社に列せられています。神奈川の名刹大山阿夫利神社は雨乞信仰で有名でありこれも五穀豊穣の神さまにつながっています。刈田郡の三田郷は現在のどこに当たるのかよく調べないとわかりませんが、農業信仰や神社の奉納田、神田や御田との関連があるよ うに思われます。ちなみに現在は一般に蔵 王山の名称で親しまれていますが、刈田嶺の名が古くからある名称です。
(2024/07/12 21:00:00:三浦屋)
各地に郡山の地名がありますが、ほとんどが近くにかつての官衙跡があって、それに由来する地名です。福島県郡山市や仙台市太白区のあすと長町の郡山もそうです。 地名の歴史は古く律令制以前の地方行政単位の郡に相当する評こおりでした。大宝律令施行のあとは評の字を郡こおりに改めております。[山]の字はお寺の山号や山門 の意味に近く政務や業務を取り仕切る重要拠点の意味を持つと考えられます。長町の郡山官衙遺跡の立地は平野部ではありますが、周囲より少し高めの河岸段丘上に 在ります。
(2024/07/08 19:54:00:三浦屋)
軍団兵士制がスタートした時点では、既存の国造軍の持っていた規格外の装備品が 軍団の兵器庫にそのまま管理されました。 そのような状況下軍団兵士はそのバラバラの装備で取り敢えず訓練を受けることになりました。その後徐々に国衙内で生産された規格装備品を更新していきました。郡山官衙一期(造営初期)遺跡においても工房跡から鉄器類の残がいなどが多く出土して います。全国各地で国衙や郡衙遺跡の発見がありますが、実はその周辺に居住した官人や兵士、工人たちの住居跡や水田跡などもあり付随した施設を含めると遺跡群は実に広範囲のエリアにわたっています。
(2024/07/06 17:46:00:三浦屋)
大化改新直後の新政府は、それまでの国造軍兵士が持っていた個人装備(規格外品)を評造の兵器庫に集中保管させました。この 施策は兵器と兵士を分離させることにより 戦力の集中と訓練の集団化、動員の迅速化をめざす軍政改革でした。この大化の軍政改革によってヤマト王権時代の国造軍は 新たな評造軍に転換することになりました。
(2024/06/30 21:54:00:三浦屋)
大化改新直後の新政府は、それまでの国造軍兵士が持っていた個人装備(規格外品)を評造の兵器庫に集中保管させました。この 施策は兵器と兵士を分離させることにより 戦力の集中と訓練の集団化、動員の迅速化をめざす軍政改革でした。この大化の軍政改革によってヤマト王権時代の国造軍は 新たな評造軍に転換することになりました。
(2024/06/30 21:52:00:三浦屋)
律令兵士制のスタートは690年であり、軍団制のスタートは701年の事でした。 兵士制あるいは軍団制が始まった頃の兵士 装備は果たしてどのように調達されたのでしょうか。ここで軍団兵士制に前史が あったことを忘れてはなりません。と、律令政府軍政研究の大家下向井氏は語っておられます。それは、各地の在来豪族を抱えた国造の存在でした。
(2024/06/23 21:16:00:三浦屋)
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