長政さんがみなさんに慕われているか、またはご本人が名前にどれだけ愛着があるかについて、本ページの「長政さんの名前レベル」により名前にたいする愛を示してくれた方々ポイントをもとに判定しています。
黒田長政
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くろだながまさ |
生没:1568~1623 |
官兵衛孝高の嫡男で従五位下甲斐守のち従四位下筑後守。松寿丸と呼ばれた幼少期は、信長への人質として長浜で暮らす。このとき荒木村重の謀反が起こり、説得に出向いた父孝高が有岡城に幽閉され、これを疑った信長から処刑の命が下るが、竹中半兵衛の機知により救われたと伝えられる。天正十七年に父孝高の跡を嗣いで豊前中津城主となり、朝鮮役の際には渡海して数々の武功を挙げた。また関ヶ原では東軍に属し活躍、その功により一躍筑前一国52万石の主となった。 |
山田長政
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やまだながまさ |
生没:?~1630 |
駿河の染工(紺屋)山田九平次の養子九左衛門友昭の子(妻の連れ子という)で通称仁左衛門。慶長年間後半にシャム(現タイ)に渡ってアユタヤ王朝下で活躍、日本人町の頭領となる。戦功を重ねてリゴール(タイ南部のナコンシタマラート)王となったが、国王没後の王位継承争いに巻き込まれ毒殺されたという。しかし長政自体の存在を否定する向きもある。 |
篠原長政
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浅井長政
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あざいながまさ |
生没:1545~1573 |
久政の長子で備前守を称した北近江・小谷城主。最初は賢政を名乗るが、後に長政に改名。信長の妹・お市の方を妻に貰い受け織田家との友好を深めるが、信長の約束違反とも言える朝倉攻めに際には情誼を優先して朝倉方に加担、信長の背後から攻めかかった。勇将の誉れ高く姉川合戦では奮戦するも三年後に信長の再攻撃を受け、三人の娘を城外に落とした後力尽きて自害。 |
浅野長政
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あさのながまさ |
生没:1547~1611 |
安井重継の長男で浅野長勝の養子となる。豊臣家五奉行の筆頭で正室は秀吉夫人ねねの妹。秀吉の信頼も厚く、九戸政実の乱や朝鮮の役の際には軍監を務めた。家康と仲が良く関ヶ原では東軍に属し、後に家康の囲碁相手として重用されたという。 |
早川長政
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はやかわながまさ |
生没:?~1615 |
豊臣秀吉の家臣。通称喜八郎、主馬頭を称す。小牧の役に従軍して以来、検地奉行や京都方広寺大仏殿の作事奉行を務めた。朝鮮の役にも従軍、豊後大分郡の直轄地代官を経て同府内城主となる。関ヶ原では西軍に属し戦後失領、大坂の役の際入城して城と運命を共にした。 |
木沢長政
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きざわながまさ |
生没:?~1542 |
左京亮。河内飯盛(山)城主で同国守護代を務める。『畠山家記』には「希代ノ悪人」と見え、初め畠山義宣の家臣であったが、のち細川高国・晴国・晴元に属す。天文元(1532)年五月、旧主畠山義宣に飯盛城を包囲されるが、細川晴元・本願寺証如の加勢を得てこれを破り、義宣を自刃させた。天文五(1536)年には大和乱入を目論み信貴山に城を構えるが、一部は支配下に置いたものの晴元・三好政長らと対立、同十一年三月十七日に河内太平寺にて戦うが敗れ、戦死した。大阪府柏原市の安堂・太平寺墓地に墓がある。 |