戸所さんの滋賀県分布

戸所の世帯数
このページは戸所さんが滋賀県に何人くらいいるか市区町村毎のおおよその世帯数を表したものです。 戸所さんの分布状況の参考にしてください。
※あくまで参考値であり保証するものではありません。

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滋賀県の推定人口数人~10人程度 滋賀県の推定順位8892位
順位 市区町村 戸所 人口
彦根市0~10人前後
順位 市区町村 戸所 人口

戸所さんの由来

  • 戦国時代、西上野国(群馬県高崎市、前橋市周辺)に居住した地侍の一族。歴史資料では武田信玄に滅ぼされた箕輪城(高崎市郊外)の有力国衆・長野氏の直属家臣団名簿に「戸所姓」が散見される。落城後は武田氏、武田氏滅亡後は北条氏、北条氏滅亡後は徳川四天王の井伊直政(初代高崎藩主)の配下に入った。直政の転封に伴って一族は滋賀県に移るか、隣の総社藩主・秋元氏の家臣となるか、在地で帰農した。現在も前橋市の総社地区には約20軒の戸所家が在住。また総社藩士となった戸所家は藩主・秋元氏の転封に伴って甲斐谷村藩、武蔵川越藩、出羽山形藩、上野館林藩と各地を転々。幕末の館林時代は河州郡奉行の要職にも付き、古絵図に館林城大手門内に大きな戸所姓の屋敷もみえる。
  • 【戸所姓の由来】 戸所家は戦国時代、榛名山南東麓の西上野(こうづけ=現在の群馬県高崎市周辺)に発祥した地侍の一族。歴史資料では武田信玄に滅ぼされた箕輪城(高崎市郊外)の有力国衆・長野業政の家臣録「永禄元年正月廿九日改軍評定着到帳」(1558)に「戸所甚内」、「戸所甚兵衛」の名が記されている。戸所一族は室町中期、上野国西部の片岡郡全域を占めた荘園(豊岡荘、領家不明)の一部を管理する荘官であり、烏川右岸の長野郷の一角(現在の高岡市上豊岡町)に租税免除の「給田」を与えられていた。やがて上野国全土を巻き込んだ関東管領上杉氏(上野国守護)と鎌倉公方足利氏との27年間に及ぶ内乱(享徳の乱、1454)が起こり、荘園制度が瓦解する中で武装化し、給田周辺を私領化。地侍(土豪)に転身し、その地形から「戸所」の名字を名乗った。 「戸」とは「水流の出入りするところ」、「所」とは「領有する土地・地域」を意味する(広辞苑)。この地は鼻曲山(群馬、長野県境)に源を発する烏川と、碓氷峠(同)が源の碓氷川との合流点の北西約3.5㌔にあり、明治初期に編纂された「上野国郡村誌」には「水利便ナレドモ毎歳水害ヲ免カレス」とある。この地形を名字にとることで、自領の領域を内外に明らかにし、「一所懸命」に守り抜く決意を込めたのであろう。ちなみに「戸所」は榛名山南東麓のこの一族固有の名字であり、全国に散見される「戸所」家はすべて同根である。
  • 【戦国の剣聖と戸所一族】 戸所甚内・甚兵衛親子が名を連ねる長野氏家臣録「永禄元年軍評定着到帳」(1558)が記された9年後、その拠点・箕輪城が武田信玄に落とされ、長野氏は滅亡した。「戦国の剣聖」といわれ、柳生石舟斎に新陰流を伝授した上泉伊勢守信綱も箕輪長野氏の武将で、武田信玄の箕輪城攻めでは戸所甚兵衛を惣領とする戸所一族と共に城内に立て籠もり、武田軍と戦っている。 信綱は「兵法三大源流」とされる陰流、神道流、念流を修め、独自に「新陰流」を大成した。箕輪の道場には各地の剣客が集まり、盛時の門人数は1500人を超えたといわれる。戦乱の世で「命のやりとり」を日常とする戸所一族も信綱から手ほどきを受けていたと思われる。 箕輪城陥落後、武田信玄は勇猛で知られる百戦練磨の長野軍団の落武者たちを生け捕りにし、戸所甚兵衛を含む約200人を家臣・内藤修理の直属軍団に組み込んだ。一方、信綱は武田氏への仕官を断り、信玄の許しを得て諸国放浪の旅に出る。のちの徳川将軍家の兵法指南役・柳生宗矩の父、石舟斎はこの諸国放浪中の信綱に弟子入りし、新陰流二代目の印可状を与えられ、世にいう「柳生」新陰流を創始した。(「箕郷町誌」参照)
  • 【戸所一族と長野氏】戸所一族が長野氏の直属家臣となったのは長野業政の父・憲業が榛名山東麓の要害の地に箕輪城を築城した永正9年(1512)以降のことと思われる。長野氏はかつて石井姓を称し、上野国の国衙(朝廷任命の国司の役所)の官人(行政官)を代々勤めていたが、室町中期に国衙領の群馬郡長野郷に移り、姓を「長野」と改め、豪族として同地に土着。関東の内乱が続く中で長野郷一円の地侍を含む大小の土豪を被官化し、上野守護代の総社長尾氏などと姻戚関係を結んで急速に勢力を拡大した。この過程で戸所一族も所領を守るため長野氏の家臣団に組み込まれたとみられる。 このころ、伊豆を領国化した伊勢氏が相模一国(神奈川県)を経略し、名字を「北条」に改め、小田原城を拠点に関東への侵攻を開始している。天文7年(1538)、北条氏は鎌倉公方の嫡流を名乗る古河公方・足利晴氏から「関東管領」職を与えられ、鎌倉府以来の関東管領家・山内上杉氏との抗争が本格化。長野氏の当主・長野業政は山内上杉氏の後ろ盾を得て、「箕輪衆」と呼ばれる在郷武士団を束ね、総社長尾氏とともに上杉方の重鎮として活躍するが、天文21年(1552)、北条氏康が上杉氏の拠点・平井城(群馬県藤岡市)を攻め落とし、当主の上杉憲政は長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後に没落した。 景虎は翌年、武田晴信(のちの武田信玄)と第一次川中島合戦を戦うが、その前後に相模北条氏、甲斐武田氏、駿河今川氏の「甲相駿三国同盟」が成立。以後、北条・武田連合軍と、上杉憲政を擁する長尾景虎との上野、信濃両国の覇権を巡る熾烈な戦いへと発展する。この時代状況のさ中、戸所甚内、戸所甚兵衛が登場する「永禄元年軍評定着到帳」(1558)が作成されたのである。 ちなみに、箕輪長野氏は直属家臣(旗本直臣衆)を領内要所の「内出」と称する直轄地に居住させており、戸所一族も長野業政の時代に、長野氏が領有していた前橋市元総社のかつて「字中内出」と呼ばれた地域に移住させられたとみられる。ここは箕輪城の東の防衛線・利根川の右岸にあり、近くには上野守護代・長尾氏の居城「蒼海城」があった。移住地には屋敷のほか、多少の田畑が与えられたと思われるが、日常はほぼ長野氏の戦闘要員に特化。上豊岡町にある「本領」は耕作民にゆだね、地代を徴収するだけの関係になったとみられる。
  • 【戸所惣領家の足跡】箕輪落城後、戸所惣領家は武田信玄の家臣・内藤修理の直属軍団に組み込まれ、以後は内藤軍団を中核とする箕輪衆として戦国時代を駆け抜ける。武田氏の滅亡後、箕輪衆は勝者の織田信長の支配下に入り、信長が「本能寺の変」で殺害されたあとは、上野国に攻め込んだ北条氏の軍門に降った。その北条氏は天正18年(1890)、豊臣秀吉の小田原征伐で倒れ、秀吉に関東八カ国(関八州)を与えられた徳川家康が重臣・井伊直政を初代箕輪藩主(のち高崎藩主)に据えると、多くの箕輪衆は戸所惣領家を含め井伊直政の家臣となった。敗者が勝者に従属するのは戦国時代の習いであり、さもなければ滅びるだけだった。この時、「元総社」にある戸所惣領家の屋敷と付属田畑は、所在地周辺が箕輪藩の飛地領とされたため、そのまま安堵されたが、支配領域外となった上豊岡町の所領は没収され、戸所惣領家は藩主に俸禄を支給される「扶持米取り」になったとみられる。 慶長5年(1601)、直政は近江に領地替えとなるが、戸所惣領家は東隣の総社藩に移籍し、直政配下の武将で総社藩主に出世した秋元長朝に仕えた。この際、戸所惣領家は2つに割れ、分家は井伊氏の陪臣として近江に移っている。 総社藩士となった惣領家は以後、秋元氏家臣として藩主の転封に従い、甲斐谷村藩、武蔵川越藩、出羽山形藩、上野館林藩へと移動を繰り返した。戸所家の系譜がはっきりと辿れるのは秋元氏の「分限帳」(家臣録)が残るこの総社藩以降のことである。秋元長朝は上野守護代だった総社長尾氏の蒼海城(前橋市元総社)を廃却し、利根川右岸に総社城(前橋市総社)を築いて城下町を移した。江戸初期の「総社城の図」(秋元氏家臣杉本孟恭作図)に描かれた町屋には「戸所六右衛門」、「戸所源蔵」の名が見える。この「六右衛門」は戸所家惣領の字名(あざな。通称)であり、年代的にみて「戸所六右衛門甚兵衛」の可能性もある。秋元氏は長朝から数えて11代目の館林藩主・秋元礼朝の時代に明治維新を迎えた。明治4年(1871)の「廃藩置県」の際に館林県(旧館林藩)が明治政府に提出した士禄高取調帳に「士族 戸所文平」、「士族 戸所半平」と記されている。これが戦国乱世を駆け抜け、江戸時代、そして明治維新へと生命をつないだ戸所惣領家の足跡であり、少数一族とはいえ同根の戸所家はこの過程で群馬、滋賀、山梨、埼玉など各地に根を張り、「戸所」姓を今に伝えているのである。

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