馬渕さんの宮崎県分布
このページは馬渕さんが宮崎県に何人くらいいるか市区町村毎のおおよその世帯数を表したものです。
馬渕さんの分布状況の参考にしてください。
※あくまで参考値であり保証するものではありません。
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※本サイトではプライバシー保護のため人口が少ない場合は[ほとんどいない]、[0~10人前後]等と表現させていただいております。各市区町村の合計と[宮崎県の推定人口]は一致しません。
宮崎県の推定人口 | 数人~10人程度 | 宮崎県の推定順位 | 9772位 |
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馬渕さんの由来
- 家系伝説ですが、佐々木源氏の流れで近江の馬渕(現在は近江八幡市馬渕)に土着し馬渕を名乗ったとのことです。室町時代は六角家の被官で、信長の上洛で六角が敗れ、我がご先祖様も落ち延びて美濃へ行ったらしいです。なぜ信長領の美濃なのかは判りませんが。 江戸時代は中山道の渡し場の管理をしていたそうです。その後曾祖父が明治の始めに大阪に出てきて商売を始めたとのことです。明治生まれの大叔父によれば、岐阜の馬渕本家は大きくて立派な建物だとのことです。
- 静岡県浜松市の馬渕は 三方原の戦いで馬の水飲み場 休憩所の場所に由来していると 祖父から聞きました。
- 近江馬渕村の出自で山内一豊に仕え、土佐藩士として城下に移住。子孫に江戸時代後期、土佐藩13代藩主山内豊熈に抜擢され、藩政改革に当たった馬淵嘉平がいますが怨恨からの濡衣で獄死。嘉平の極めた呑的流柔術の弟子の弟子に板垣退助がいます。その息子の馬渕桃太郎は坂本龍馬と同じ千葉道場で剣術を極め、幕末期の泉州堺事件で介錯を務めています。桃太郎のその後は不明、馬渕家のその後も不明です。
- 磐田市に岩井村があり、村民の名前は、ほぼ馬渕で、西の小高い山に、本田平八郎忠勝が、築いた砦の跡があります、その裾野に鶴ヶ池があり、公園になっています、三方原の戦いに関連しているようで、ここの馬渕は、いづこからの由来なのでしょう。
- 岐阜の馬渕の本家は江戸末期に完全に崩壊しました、今の名前は辻です。 近江の佐佐木一族の流れ。
【名字由来教えてください】
馬渕の由来についてご存知の方がいらっしゃいましたら教えていただけると助かります。よろしくお願いいたします。馬渕姓について由来や字の意味、他の読み方、画数、ローマ字表記、などいろいろな情報を掲載しています。