村がつく名字

概要

村がつく名前 村のつく名前は300種類以上あります。なぜそんなに種類があるのかを追求します。村がつく名字はありきたりな由来ではありません。その由来を鎌倉時代村の発祥までさかのぼってみていきましょう。


村の発祥

村の発祥 今からおよそ800年前の鎌倉時代、このころ村は無く、地主によって雇われ家族単位で暮らす人が多かった。 地主からの年貢の取り立ては厳しいものがあり、払えなければ子供を取られたり、追い出されたりと、とても豊かな暮らしとは言えませんでした。
そんな状況を打破するために一部の住民が血縁や縁者、知り合いを頼りに集まり、地主の支配から離脱し始めました、 しかしこの頃、鉄の鋳造が盛んにおこなわれるようになり、今まで道具も借りていた状況から、自らの農具が手に入るまでに安くなりました。 このため貧乏な百姓でも独立することが出来るようになったのです。 こうして地主の支配を脱して自らの集落をつくるようになります。これが「村」です。 ちなみに村という字は、人が群がるという由来があります。
この村には過去の教訓から、権力(神社、用水路の管理、掟の制定など)が一人の人に集中して独裁者を作らないように輪番制にする「宮座」という制度があったり、 罪のあるものを罰する多数決裁判のような「入り札」というシステムがありました。
それではここからいったいどのようにして「村」のつく名字に発展していったのでしょうか?

村のつく名字への発展

村のつく名字への発展
独立自治となった村の中には、制度や掟があったものの、人が増えてくる徐々に村の運営が難しくなり、だれが何をどれだけ所有しているのかということが管理しきれなくなり、それが争いの元となってしまいました。
このため、初めにできた村を中心に、近くに独立した村を新たに作りました。 その際に、最初の村と区別できるように、西に向かった人の村は「西村」、北に向かった人の村は「北村」、 そしてもともとあった村は中心の村ということで「中村」と名乗りました。 だからパターンとしては「中村」は最も多くなっているということになります。

村のつく名字のさらなる発展

村のつく名字 さらに人口が増えていき中村を中心に、周辺がそれぞれの村で開拓しつくされた後、開拓しつくされたのは田畑を作ることが出来る地域の見でした。 その頃各村の交流として「市」が設立され、そこでは物々交換などが行われていました。 そんな「市」へ行き、竹のような物々交換により食べ物を得ることを生業とする集団が出てきました。 こうして食物が育たないような場所にも、その地域の特産品により村を作ることが出来ようになりました。 この特産品の名前を村につけた「竹村」「松村」「樫村」など今までに無いバリエーションの村名が生まれてくることになります。
またよくある名前の一つでもある吉村は、自分の村が良い村=「吉村」となったケースと、 葦が取れる村が特産品である「葦」が「悪し」と同じ読み方であることを忌避して逆の意味である「吉」をあててつけたというものもある。 こうした名づけ方は日本人特有の音に対するこだわりですね。

その他の村がつく名前

村田さんは村の中にある、共有の田んぼのこと。共有の田んぼとは、子供がまだ幼いうちに親が無くなった場合、子供が大きくなるまで村で共同で管理するようなシステムだったようです。

木村という名字には何があるのか!?

木村さんというと木が多い村=木村という説があります。 しかし木村という名字は多くありますが、地名に「木村」とつくものは全国でも兵庫県加古川市の木村など5か所ほどしかありません。村のつく名字のうち最も多い中村は全国で百数十か所あることと比べると大分差があります。 このことからNHKが調査を行ったところ、いくつかの裏付けに基づく新設が見つかりました。

加古川市の村に関する資料によると「紀伊村」からの転移により「木村」となったという記述があります。

木村という名字の由来

福島県郡山市の木村には、江戸時代の書上帳という古い資料には、紀州熊野速玉社へ年貢を納めていたという記述がある。紀州(現在の和歌山県)はもともと紀伊国(きのくに)ともよばれていた。

兵庫県豊岡市の木村で「紀伊」とのつながりを探すと、この村には古墳があることから豪族が住んでいたことが分かり、豪族とのつながりが確認できる。 合わせて栃木県栃木市の木村にも、豪族が住んでいた証である古墳がある。この地域は東北征伐で紀伊国を拠点にした紀氏の豪族が多く移り住んだと考えられている。代表的人は「紀貫之」ですね。

木村の由来は豪族?

さらに滋賀県東近江市の木村には、宮井廃寺という寺を創建した当初の瓦が出土しており、その瓦は紀寺式といわれるラーメン鉢のような瓦で、豪族紀氏が用いたものである。 さらに鎌倉時代の書物「源平盛衰記」から、この滋賀県東近江木村出身の木村源三成綱という人物が、紀守中将成高という紀氏の豪族であることが分かった。 ここまでいくと「木村」の木は紀からきていることは否定できないとの専門家の意見ももらっていました。

木村のと紀氏

そして極めつけは現在木村さんが多く住んでいる地域と、紀氏が拠点を構えたとされる箇所を日本地図にプロットすると、符合する点が多くみられます。
画像が小さくてわかりずらいという方は画像をクリックして拡大してみていただければと思います。 ここまで調べるところは、さすがNHKというべきでしょう。 この新設は新たな学説として論文化してもらいたいですね。 ちなみに「紀伊」が「木」になった理由としては奈良時代に定められた好字二字文化令により「紀伊村」を「木村」にしたのではないかと推測されます。

番外編:有村という名字には何があるのか!?

朝ドラ「ひよっこ」で私たちを虜にした有村架純さん、この有村という名字には気になる謎が、何かがある村と書きますがいったい何があるのでしょうか。 桜島には有村という村が実在しています。 しかし実は対象三年1月の桜島大噴火で有村の村落は火山灰に埋もれてしまいました。 薩摩藩の古い資料によると、有村の海辺にはどこをぼっても「観音湯」と呼ばれる温泉が出たという記録がある。 実際に有村があった海岸を掘ってみると今でも温泉が出るようです。 名湯が「有る」ので有村となったのかは別の話のような気がしますが。

※この記事はNHK2017/11/30放送の人名探求バラエティー 日本人のおなまえっ!を参考に追加取材して作成されています。

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