村がつく名字
概要

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村の発祥

村のつく名字への発展

村のつく名字のさらなる発展

その他の村がつく名前
村田さんは村の中にある、共有の田んぼのこと。共有の田んぼとは、子供がまだ幼いうちに親が無くなった場合、子供が大きくなるまで村で共同で管理するようなシステムだったようです。
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木村という名字には何があるのか!?
木村さんというと木が多い村=木村という説があります。 しかし木村という名字は多くありますが、地名に「木村」とつくものは全国でも兵庫県加古川市の木村など5か所ほどしかありません。村のつく名字のうち最も多い中村は全国で百数十か所あることと比べると大分差があります。 このことからNHKが調査を行ったところ、いくつかの裏付けに基づく新設が見つかりました。
加古川市の村に関する資料によると「紀伊村」からの転移により「木村」となったという記述があります。

福島県郡山市の木村には、江戸時代の書上帳という古い資料には、紀州熊野速玉社へ年貢を納めていたという記述がある。紀州(現在の和歌山県)はもともと紀伊国(きのくに)ともよばれていた。
兵庫県豊岡市の木村で「紀伊」とのつながりを探すと、この村には古墳があることから豪族が住んでいたことが分かり、豪族とのつながりが確認できる。 合わせて栃木県栃木市の木村にも、豪族が住んでいた証である古墳がある。この地域は東北征伐で紀伊国を拠点にした紀氏の豪族が多く移り住んだと考えられている。代表的人は「紀貫之」ですね。

さらに滋賀県東近江市の木村には、宮井廃寺という寺を創建した当初の瓦が出土しており、その瓦は紀寺式といわれるラーメン鉢のような瓦で、豪族紀氏が用いたものである。 さらに鎌倉時代の書物「源平盛衰記」から、この滋賀県東近江木村出身の木村源三成綱という人物が、紀守中将成高という紀氏の豪族であることが分かった。 ここまでいくと「木村」の木は紀からきていることは否定できないとの専門家の意見ももらっていました。

そして極めつけは現在木村さんが多く住んでいる地域と、紀氏が拠点を構えたとされる箇所を日本地図にプロットすると、符合する点が多くみられます。
画像が小さくてわかりずらいという方は画像をクリックして拡大してみていただければと思います。
ここまで調べるところは、さすがNHKというべきでしょう。
この新設は新たな学説として論文化してもらいたいですね。
ちなみに「紀伊」が「木」になった理由としては奈良時代に定められた好字二字文化令により「紀伊村」を「木村」にしたのではないかと推測されます。
番外編:有村という名字には何があるのか!?
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※この記事はNHK2017/11/30放送の人名探求バラエティー 日本人のおなまえっ!を参考に追加取材して作成されています。