太和田さんの福井県分布
このページは太和田さんが福井県に何人くらいいるか市区町村毎のおおよその世帯数を表したものです。
太和田さんの分布状況の参考にしてください。
※あくまで参考値であり保証するものではありません。
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※本サイトではプライバシー保護のため人口が少ない場合は[ほとんどいない]、[0~10人前後]等と表現させていただいております。各市区町村の合計と[福井県の推定人口]は一致しません。
福井県の推定人口 | データ無し人程度 | 福井県の推定順位 | 位 |
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太和田さんの由来
- 私は千葉県在住ですが、ル―ツは岐阜県です。60年前の高校生の頃、本籍地の祖父から「岐阜県のお寺に先祖代々からの家系図があり、先祖一族は戦国時代に駿河付近から移り住んだ」と聞いている。従兄弟達の学校時代は、同姓がクラスの半数も占めていたので出席点呼は姓名ではなくて名前を呼んでいたそうです。 私が昭和53年に兵庫県から千葉県に転居して来た当時の住宅情報によりますと、既に県内の市川市、船橋市、佐倉市などに同姓の親戚ではない方々が居られました。その後は習志野市にも居住が確認されていますし、私の息子達も独立して県内に居を構えていますので統計上の千葉県在住者が増えていると思われます。
- 上記の方も書かれているように戦国時代前は掛川の山間部に住む武士だったようです。「峠田(たわだ」「多和田」「太和田」いずれも民俗学的には山が「たわ」んだ土地、すなわち山間部出身を意味すると考えられている。 上記の通り桶狭間の戦いで藩主今川義元についたが破れ、織田信長について美濃平野、稲葉山城(現岐阜城)下に集落を形成するようになったようだ。 現在の岐阜県北方町本巣郡に太和田さんの集落があり、ここから多くの優秀な若者が東京帝国大学や京都帝国大学などに排出されていったと記録されている。
- 室町時代は掛川の山間部に在住する関東武士。桶狭間の戦いで藩主今川義元に従い参戦。今川義元討ち死にのため織田信長に従い美濃の稲葉山城下、現、岐阜県本巣郡北方町に集落を形成。「時の鐘」で有名なお寺を菩提寺にする。明治以後になり、この集落から東京帝国大学や京都帝国大学などへ優秀な「太和田」さんが排出され、これらが全国に展開していったものと考えられている
- 言語学的には「たわむ」と同義だそうで「多和田」さんと同族。室町時代までは現在の静岡県掛川市に居を構える武士一族だったそうな。
- 和田姓は多和田の異形である。 多和田姓は、摂津国川辺郡多田の地に武士団を形成した源満仲が「多田」を号したことから始まる多田氏の一族であり、源満仲の長子である頼光とその子・頼国が多田の地を継承し、頼国の五男・頼綱以降、嫡流が「多田」を号した。多田氏は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、源氏の有力な一門として活躍した。多和田を称した一族から駿河に移り「太和田」と称したようである。 現在は岐阜県、愛知県、千葉県などに分布が見られる。(岐阜の郷土史家)
【名字由来教えてください】
太和田の由来についてご存知の方がいらっしゃいましたら教えていただけると助かります。よろしくお願いいたします。太和田姓について由来や字の意味、他の読み方、画数、ローマ字表記、などいろいろな情報を掲載しています。