去来川さんの掲示板

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足あと

家系は神崎郡(粟賀村)中村です。名字の由来について、粟賀村には同じ苗字の方が複数存在していましたが、①それらは辿れば幾つかは繋がる可能性があるのか(江戸時代の名字の由来でも違うので全く異なるかも知れません)、②元々奈良の率川の川から名前を取ったのものなのか、率川の宮(神社)からの由来なのか、③そもそも奈良で名乗ってた方がおられ、奈良からの系譜で、漢字が別れ、神崎郡に移り住んだ方が(いさがわ)名乗ったのか(大工、藤原朝臣去来川新祐尉、等)、色々よく分からないなと思っている次第です。調べるのも限りがあります。若い頃に沢山聞いておけば知れたのにとよく思います。
(2022/08/28 20:54:51:名無し)

読み方で「いさがわ」以外の方はいらっしゃるのでしょうか。文献などでは「いさかわ、いざかわ」など書かれてるのを見ましたが、実際おられるのかなと思っています。
(2022/08/28 20:31:56:名無し)

豚の足あと(2022/01/23 12:18:27:名無し)

去来川(きょらいがわ)じゃ無いの?
(2022/01/23 12:17:57:津)

くつの足あと(2022/01/23 12:16:41:名無し)

世界中の去来川集合!
(2022/01/23 12:16:04:名無し)

去来川姓の由来記 昭和四十四年(1969)去来川信郎 去来川(いさがわ)の姓は極めて稀少である。 電話簿や各種の人名録を調ぺても吾々の一族又は郷党の者以外は殆んど発見しない、謂はば吾が郷里個有の姓であろう。 こんな事から私は去来川の姓に関して二十数年前から種々の・文献や歴史書を漁り調査研究してゐる。恐らく私の生命の続く限り将来も之を継続するであろう。 又、これから派生して世の中の奇姓、珍名の調査にも與味を持つようになつて氏姓学の権威者とも屡文通してゐる。 去来川姓が吾が郷里以外には無いものとして、いつ頃どうして出来たものかを今迄に調査した総合的結果を記しておこう。 調査の主たる参考資料は (A)私の実家である去来川本家に残る古文書及び墓石等 (B)菩提寺たる安楽寺の過去帖 (C)昔の藩主たる福本池田藩の歴史  (D)氏神である大歳神社の縁起書  (E)郷里の古老 の口伝等である。又いさがわかいざがわかに就ては「大言海」(大槻文彦)「国民百科大辞典」(富山房)「大百科事典」(平凡社)等で調ぺた。各歴史書の調査には大阪及び東京の図書館へ屡通つたものである。以上の如く可なり念入りに調査したので先づ間違いはないものと確信してゐる。殊に池田藩に関する事貫は郷里の従弟塩田建三郎君が郷土史の研究に熱心で確実なる貴重なる資料を豊富に集めてゐるのでその助力を仰いだ事は甚だ便利であつた。その厚意を多とするものである。(塩田君は藩の御典医の家に生れた士族で藩の各種古文書を 数多く集めて研究してゐる) 私の郷里播州福本(兵庫県神崎郡神崎町福本)は姫路から北へ但馬街道を七里、但馬国生野(銀山いくの)から南へ三里で中国山脈の頂上から南(山陽)へ約三里程下つた処にあり、市川の上流越知川(おち川)の東岸に位する。上古(石器時代)からの史跡が多く残つてゐる (塩田君の調査による。別途発表する予定) 寛文三年九月(1663年)徳川四代将軍家綱の時代に備前岡山の池田藩の分家鳥取池田藩の分藩として源経基二十六代目の孫松平政直公の領地として福本池田藩が生れた(各歴史書に明記)寛文五年乙已(1665年)に能登守政直公の入部と共に藩主の邸宅や藩地の構築に取りかかり更に全八年(1668年)に二代目.藩主松平政武公が郷社大歳神社の造営を始めるに当り木材は川上村より取り寄せ工師(頭領)として奈良より新助なる者を招い
(2022/01/23 12:15:08:名無し)

去来川姓の由来記 昭和四十四年(1969)去来川信郎 去来川(いさがわ)の姓は極めて稀少である。 電話簿や各種の人名録を調ぺても吾々の一族又は郷党の者以外は殆んど発見しない、謂はば吾が郷里個有の姓であろう。 こんな事から私は去来川の姓に関して二十数年前から種々の・文献や歴史書を漁り調査研究してゐる。恐らく私の生命の続く限り将来も之を継続するであろう。 又、これから派生して世の中の奇姓、珍名の調査にも與味を持つようになつて氏姓学の権威者とも屡文通してゐる。 去来川姓が吾が郷里以外には無いものとして、いつ頃どうして出来たものかを今迄に調査した総合的結果を記しておこう。 調査の主たる参考資料は (A)私の実家である去来川本家に残る古文書及び墓石等 (B)菩提寺たる安楽寺の過去帖 (C)昔の藩主たる福本池田藩の歴史  (D)氏神である大歳神社の縁起書  (E)郷里の古老 の口伝等である。又いさがわかいざがわかに就ては「大言海」(大槻文彦)「国民百科大辞典」(富山房)「大百科事典」(平凡社)等で調ぺた。各歴史書の調査には大阪及び東京の図書館へ屡通つたものである。以上の如く可なり念入りに調査したので先づ間違いはないものと確信してゐる。殊に池田藩に関する事貫は郷里の従弟塩田建三郎君が郷土史の研究に熱心で確実なる貴重なる資料を豊富に集めてゐるのでその助力を仰いだ事は甚だ便利であつた。その厚意を多とするものである。(塩田君は藩の御典医の家に生れた士族で藩の各種古文書を 数多く集めて研究してゐる) 私の郷里播州福本(兵庫県神崎郡神崎町福本)は姫路から北へ但馬街道を七里、但馬国生野(銀山いくの)から南へ三里で中国山脈の頂上から南(山陽)へ約三里程下つた処にあり、市川の上流越知川(おち川)の東岸に位する。上古(石器時代)からの史跡が多く残つてゐる (塩田君の調査による。別途発表する予定) 寛文三年九月(1663年)徳川四代将軍家綱の時代に備前岡山の池田藩の分家鳥取池田藩の分藩として源経基二十六代目の孫松平政直公の領地として福本池田藩が生れた(各歴史書に明記)寛文五年乙已(1665年)に能登守政直公の入部と共に藩主の邸宅や藩地の構築に取りかかり更に全八年(1668年)に二代目.藩主松平政武公が郷社大歳神社の造営を始めるに当り木材は川上村より取り寄せ工師(頭領)として奈良より新助なる者を招い
(2022/01/23 12:14:39:名無し)

足あと(2017/10/13 17:16:35:名無し)

例)世界中の去来川さん集合!!

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